『魔法少女まどか☆マギカ』第9話の感想

キュゥべえの主張であるが、私はキュゥべえ魔法少女システムを運用する理由は結局自己の生存のためであろうと思っていた。魔法少女を取り巻く必然性の形象は、キュゥべえのシステム運用理由という形で結晶化し、もって生命の賛歌を高らかに歌い上げるのであろうと思っていた。これは結果的には誤りではなかったが、キュゥべえはこの主張は宇宙単位の功利主義にまで拡張し、最早正義の諸構想の仲間入りを果たしていたのであった。かくてキュゥべえの主張の説得力はいよいよ強まり、まどから魔法少女らはいよいよエゴイズムに陥ることとなったのであった。

かねてより私は、キュゥべえの主張は何ら倫理的におかしくないことを主張してきた。9話におけるキュゥべえ側の主張はこれを極めて強い形で強化する。キュゥべえの主張は「宇宙全体の効用増加のために最も効率的な方法(魔法少女システム)によってエネルギーを抽出すること」、これであった。しかもこれは「人間もやがて宇宙文明の仲間入りをするだろう」という形で人類にもその射程を広げ、かつ世代間倫理という重要問題にも言及される形で正当化されていたのであった。このキュゥべえの主張は説得力があり、かつ所謂「共通の正義理念」にコミットしていると言う意味で、妥当な正義構想であると言えよう。まどかはキュゥべえに「私たちは道具なのか」と問うたが、別に人間を道具として扱うことはそれ自体悪ではない。一人の人間を殺して全体効用が圧倒的に高まるのであれば殺す、これが功利主義の言う「正義」(功利主義の場合は善でもある)である。そして現代の我々は、至る所でこの功利主義的発想に染まっているが故に(例えば家畜の屠殺を考えよ)、キュゥべえの主張を悪として裁断することは不可能である。魔法少女が魔女になり、多少の人間を苦しめることで宇宙が救われるならば安いものではないか?我々がこれを奇妙に感ずるのは、我々が地球という文明しか知らないからに過ぎない。キュゥべえはもっと、ウルトラに「グローバル」である。大局的観点を持っている。有り体に言ってキュゥべえは志士(獅子、でもある)なのである。
もっとも政治哲学的には、正義構想は唯一ではあり得ない。功利主義があればDworkin的なegalitarianなリベラリズム井上達夫リベラリズム、Nozick的なリバタリアニズムコミュニタリアニズム、これらは共通の正義概念にコミットしながら、なお異なる正義の構想である。功利主義はこれらの理論との対話の芽を摘んではならないのであって(勿論これらの議論に阿れば良いのではない。功利主義はこれらの議論の不完備性を批判するだろう。その際に功利主義は応答的反論を許容しなければならない、と言うことである)、キュゥべえがそのことを果たしたか、と言えばこれは甚だ怪しいと言える。またキュゥべえの主張する宇宙文明とやらは人間に対しては目に見えないのであり、功利主義特有の「シンプルさ=基準の画一性・単純性」という説得性の根拠が失われてしまってはいる。キュゥべえの「胡散臭さ」は畢竟ここに由来するのであろう。しかし後者については既にキュゥべえや魔女の存在により、否応なく魔法少女には「人智を越えた者が存在する」という観念を抱かせているのであるから、説得性には、結果的にさほど影響してはいない。とすると問題は前者であるが、これに依拠した反論は功利主義の原理的問題と言うよりも、「これを満たさない限り功利主義は正義の構想の域には上れず、単なる一つの善の構想でしかない」というものであり、キュゥべえの議論の説得力を失わせると言うよりは、その正義要求を否定してキュゥべえの主張を魔法少女達の感情的主張と同じエゴイズムのフィールドに引きずりおろす、という意味合いしかない。キュゥべえを引きずりおろしても、魔法少女側としてはやっと対等なのであり、彼との対決は結局暴力的なそれに帰着してしまうことになる(そしてそうすれば魔法少女が話に勝ち目はないだろう)。且つ、キュゥべえ側からすれば、応答しさえすればよいと言うことになり、そして現にキュゥべえは応答しているのであるから、いよいよ彼の議論に対する反論は、異なる正義の構想の提示によって以外には不可能なものとなる(尚正義の構想感の争いにおいては、応答義務は反論に対してのみ存在する。相手が反論しないこと・領域まで弁論する必要は本来ない。これは戦略的理由と言うよりは、基礎付け主義を回避するという意味合いの方が強い。まあキュゥべえが「自分の理性の普遍性」などを説得的に訴えられるのであれば基礎付け主義に陥っても良いのだが、そこまでしなくとも十分キュゥべえに勝機はある)。
以上より、キュゥべえの議論は毫も失当してはいない。魔法少女側は、キュゥべえがボールを投げた以上、説得力のある、エゴイスティックではない論拠によって反論することが要求されている。反論義務は最早キュゥべえではなく魔法少女の側にある。キュゥべえの議論を「人間的ではない」として一蹴する魔法少女、否大衆は、政治哲学の基本を、井上達夫『共生の作法』(創文社、1986年)あたりで学び直すことが要請される。

さてキュゥべえの主張の政治哲学的妥当性(「正義の構想」としての妥当性)は示された。ここからは政治哲学をやや離れる、否これもまた政治哲学ではあるのだが、しかし気色の違う領域に踏み込むこととする。
先ずさやかと杏子についてである。私がかつて洞察したように、杏子は同情の奴隷となって死んでいったのであった。尤もそもそも杏子はもともと同情から発していたのであるから、これは一種の原点回帰なのであるが。同情と杏子的な快楽主義とは同じ直線上にあり、故に何らかのファクターによって振れ幅が増してしまえば、容易に左右の両極へと振り子は移動してしまう。かくて釈迦の手の上で踊っていた杏子は、これまた釈迦の手の上で踊っていたさやかと情欲的な戯れを見せ、どちらも現世の華となって散っていったのである。この問題を前の日記において「下らない」と私は一蹴したが、虚淵もまたこの問題が下らないことを認識していた。であるから、9話においてやや唐突且つ駆け足に、さやかと杏子の対決を持ち込み、どちらも破壊することで強制的に収拾をつけたのである。真にドラマという者がよく分かっている人間の作法であると言えるだろう。なおドラマとしてはこれは単純極まりなく且つ退屈でもあるのだが、記号論的な「表層批評」を施せばもう少し面白い者が出て来るであろうから、諸賢がこの方向に邁進することを、私は要請するのである(例えば「水」の表象について、など)。

かくてうまい棒のバトンを渡される形で、旧世代の魔法少女=情念の奴隷、から、新世代のそれ=英雄、に対する魔法少女概念の変節が象徴されるのであった。バトンがうまい棒なのはやや気にかかるところである(即ちうまい棒は食欲の象徴であり、これは魔法少女の本質が、まどかに至ってもなお欲望や同情と言った陳腐な原理のままなのではないか、という疑念を抱かしめるに十分だからである)が、邪魔者は既にない。以降は時間停止の術を身につけ、現在・過去・未来から隔絶された思考の場において、ほむらとまどかという同一の主体が「対話」(Dialektik)を繰り広げるのだろう。否繰り広げてもらわねば困る。さもなければ魔法少女を取り巻く必然性問題が棚上げされてしまうことになる。先に述べたようにキュゥべえの主張は現代政治哲学的には正当であるが、しかしこれは結局政治の問題に「宇宙の存亡」という生命の要素を持ち込んでいる点において、政治を経済の領域に浸し、汚している。政治は経済から厳として隔離されていなければならない。政治は雇用情勢や景気対策などを語ってはならない。
では政治は何をするというのか?答えは簡単、「何もしない」のである。尤も本当に何もしないのは不可能である。即ち我々は現実においては不可避的に他者と他者との間に立つ。領域を私という単位で画然と持ってはいるが、しかしこの領域は政治において不可避的に他者と接触せざるを得ない。その意味で私の一挙手一投足は全て他者に影響を与えうる。かくて政治が静止することはない。私の存在本質の投入は私にだけ関わるのではないのである。だがだからといって思考の領域に逃げ込みうるか?しかしその領域も真の意味で孤独ではない。思考は全ての現実から隔離された逃避の座であるが、それは孤独の座ではない。まどかが何処にいてもほむらに会うように、思考は全て対話の形態をとる(オープニングアニメをよく見よ。裸のまどか二人が抱き合ってキス→魔法少女化、と言う流れを辿っているではないか。あの内面的な二人の対話、あれこそが人間なのだ、というのは、『百花繚乱サムライガールズ』の見すぎであろうか。声優繋がりでもあるが)。「何もしていないときが一番一人ではない」(Cato)のだ。全ての領域はダイナミックに流転してはいる。
だがこの流転という現実がそれ自体政治の目的になることは許されない。流転に抗する姿が英雄の表徴であるのだとすれば、英雄の集結する場足る政治は、この抵抗と言う名の自己発露それ自体を目的とせざるを得ない。だがこんなことをして何になるのか?「何にもならない」。自己の本質開示や思考が「意味」への探求だとすれば、成る程政治は「意味」への営みではあるだろう。しかし定義上、政治は止まることがない。意味への安寧は許されない。だから政治の目的など語ることは出来ないし、その役割は固定的でもない。その意味で「政治は何もしない」のである。引きこもりと言う名の思考と、ダイナミックな自己吐露という英雄の営みからなる政治がそれ単体としては(暫定的な意味を提供することはあっても)本質的に無意味であること、これは我々をして絶望たらしめるに十分である。だがそれでも、これこそが政治なのだ。そして、キュゥべえの主張が唾棄すべき者であるのは、それがエゴイスティックだからではない。非政治的な、生命の維持などと言う下らない目的を、この高貴な営みに持ち込んでいるからである。どうせ意味を持ち込むならば、「政治」の動態性に耐えられなくなったギリシア人が始めた、かの営みを持ち込んでほしいものである−即ち「哲学」という営みを。だがこれは結局好みの問題であろう。食欲が哲学に勝ることもありうるだろうし、食欲は人間の「条件」なのだから(尤もこれと同じ意味で、政治もまた人間の条件なのだが)。

要するに政治の敵はさやか、杏子、キュゥべえ、の三人である。まどか=ほむらは、これらに抗して思考の座を確保し、政治を復権させることが出来るか?あるいは「意志の自由」の精練に留まるのか?前から言っているように後者であってもそれ程絶望的な解決ではない(少なくとも、キュゥべえ功利主義に義務論という正義構想を提示することによって、正義構想間での対話という形態をとり、キュゥべえの議論を相対化してはいる)が、ただ片手落ちの感は否めない(政治の復権を棚上げにしているため。しかし虚淵はこの片手落ちに手を染める可能性が高い)。ヴァルプルギスの夜(第1話のアヴァンはこれらしい)という最後に残された設定が鍵を握るが、さてどうであろうか?なおそろそろ最終話予想に入っても良いのであろうが、『Angel Beats!』の時のように、最終話でいきなり隠し設定(天使の心臓は神谷のものである、ということ)が明かされても困る(まあよく見ると映像描写に複線があるのかもしれないが、見返さねば分からない)ので、まだもう少し見を行う。
因みにこのアニメが全体的に『ファウスト』をモチーフとしているのならば(詳しく論ずることはしないが、既に『ファウスト』の問題系は現在においては妥当し得ないのであるから、この類似は外見上のものに留まり、『ファウスト』と『魔法少女まどか☆マギカ』との精神的基盤は全然別なのではある)、Deus ex Machinaたるまどかが、何らかの手段でこのどうしようもない必然性にまみれた非政治的現実を、神の如き力(そういう力はあるようだから)で解決する、という結末が予想できる。まあこれは考え得る限りかなり劣った部類に入る解決である(その理由は、結局ここでは神が復活しても政治が復活していないためであり、かつ『ファウスト』にあって今にない精神史的基礎に無自覚なまま、過去の精神をそのまま、外形の類似と言うために現代に輸入するという愚行を犯しているためでもある)が、残念ながらもっともあり得そうな解決である。このような解決を採ったならば、私は(麻枝准と同等程度には)虚淵を軽蔑するであろう。そもそも今期最高のアニメは疑いなく『夢喰いメリー』なのであるが、しかしストーリーについてならば『まどかマギカ』の方が良い、と言う程度なのであって、そのストーリーすらかような破綻をきたしては、最早弁護したくてもできないのである。断っておくと、私は別に全てのライターに「政治を復活せよ」と言っているのではない。そうではなくて、あれだけ政治だ政治だと言っておいて、映像でもそれを語っておきながら、最後になって「やっぱり無理でした、テヘ☆」では、頼っていた梯子をいきなり外されたようなものなのである。無論その場合、「このストーリーは政治の話ではなかったんですよぉ」という自己弁護が可能なのが、全体像が差し当たって明らかになっていないテレヴィアニメの強みではある(この点映画とは違う)のだし、記号や象徴は全体の体系の中でのみ初めて意味づけられるものだからそもそもテレヴィアニメをリアルタイムで評すると言う営み事態が不毛なのではないかとも思えるのではあるが、それをアニメを製作する側が言っちゃあおしめえよ、と言うことなのである(なら映画を作れよ、ということになる)。アニメの価値を決めるのは、我々批評家の方であってアニメ制作者ではない、というのに(これは自明だから一々証明しない)。

上記のように、今回の話は今までの確認でしかなく、退屈であった。よってちょっと映像の方にも触れる。
①水。魔女さやかのモチーフは明らかに人魚姫であるが、そのせいか水滴=人魚姫の涙を指示する映像が多い。うまい棒バトンの後、及び魔女さやか戦でさやかと杏子のBildが溶け合って水のように流れるカット、など(他にもあったかもしれないが忘れた)。
②車輪。魔女さやか全般。恐らくwheel of fortuneなのだろう(wheel of destinyなのではないか、と言う気もするが)。
③志筑仁美。彼女の上条への告白は結局成否不明である。だがそんなのはどっちでも良いのである(これは私が指摘した通り)。