『魔法少女まどか☆マギカ』の終了に寄せて

(1)前提
まどかマギカ』は、9話以前からかなり間が空いてしまったから、話自体を私がよく覚えていないので、ここでおさらいをしてみよう。
①マミ。彼女は命を救われるために魔法少女になり、Charlotteに喰われて死んだ(3話)。ほむらのループさせた別の世界では、魔法少女の真実を知って、杏子を撃ち殺し、まどかに撃ち殺された(10話)。
彼女はメンタリティとしては最も単純である。即ち生を得るために魔法少女になったところ、彼女の望む生とは単に生きることではなく、人間として生きることであった(よって魔女という「永遠の生」を拒んだ)。
では人間として、とは何か?言うまでもなく他者への承認欲求である。(弱さを持った、人間として)認めて欲しい、というのが彼女にとっての人間観の全て(ではないかも知れないが、基本的には殆ど全て)である。この故に、まどかを魔法少女にすることで、対等なパートナーを望んだのであった(3話)。彼女は魔法少女としての孤独な生に耐えるだけの強いメンタリティを持たず、ひたすらに他者からの承認を乞い、疎外を回復しようとしていたのであった。

②さやか。彼女は上条の病気を治すために魔法少女になった(4話だっけ?)が、杏子との邂逅(5〜7話)、上条が仁美に奪われる(奪われた)こと(忘れた)、によって発狂し、最終的には生の均衡を失って闇雲なる魔女退治に邁進し、魔女となった(8話〜9話、まあ10話もだが)。
彼女の境遇はマミよりはましである。即ち彼女には最初からまどかと仁美という友達と、何よりも上条がいる。つまり疎外はされていない。最後になって仁美と上条から「裏切られ」ても、まどかは彼女から離れようとしない(但しさやかの側がまどかを拒絶した)。
彼女のメンタリティは一言で言えば「同情」である。魔法少女になったのは上条への「同情」のためである。杏子と相容れずあくまで町を守ろうとするのは、全ての町の人に対する「同情」の故である。刺々しい態度を全体的にとり、まどかにも最後は攻撃的になる(第8話)のは、「同情」の持つ他者排除作用の故である。同情は美徳に思えるが、実はとんでもなく強い同質性圧力を要求する(最早レヴィナスなどを引く必要はあるまい)。「我々は仲間だ」という言説は、仲間でない者は「我々ではない」のだから敵であり、従って時として殺害すら正当化される(ルソー『社会契約論』第2巻第5章)。まどかが彼女にとって同情共有者でなくなった瞬間、まどかは彼女とは異質な世界に住む敵になる(因みにそうなったきっかけは、まどかが魔法少女にならず安住した地位を持っていたために、さやかにとっては、彼女が「同情」する主体に見えなくなっていたこと、に由来する)。
因みに同情は一方向的ではなく双務的であり得る、より正確に言うと、同情者が同情要求を共に備えることは普通である。というよりは、同情が同質な対象に向かう以上、その対象が私に対しても同情すべきなのは当たり前ではある。さやかが魔女化したときの「Look at me」の語はそれを示す。最後の最後まで彼女は反省せず、同情したままである。
ついでに言えば、このさやかが、所謂今までの「魔法少女」に最も近い存在である。即ち契約の自由という「建前」によって魔法少女となった女の子は、基本的には敵を倒して「みんなを守る」ことか、魔法をかけて「みんなを幸せにする」ことを目標とする。実に立派な正義の格率に見える。だがしかし、こういった魔法少女が往々にしてタキシード仮面のようなイケメンに魅せられて、平然と公私混同を起こしてしまう。理由は単純で、彼女らの掲げる格率は、実は正義でも何でもなくただの同情であるからである。よって、より同情すべき対象−否、これを世間では愛というのか−が現れた場合、容易に彼女らの関心はそこに重く向くことになる。

③杏子。これはさやかより強いメンタリティ、即ち「魔法少女の弱肉強食」を持つ。彼女が依拠するのは功利主義と言うよりはエゴイズムである。彼女は常に何かを食べているが、それはこの弱肉強食を反映した癖である(つまり自分は強い者であり、従って食べる側なのだ、と)。これを彼女の過去の吐露(7話)に引きつけて、「子供の頃あまり物を食べられなかった反動」と捉えてはならない。成る程彼女は食べ物の大切さを説く(7話)が、これはかなり唐突に出てくるショットである(それ以前の彼女はそもそも怒らない。単にさやかの甘ちゃんぶりに呆れ、好戦的になっていただけである)。原始的要因としては子供の頃の体験は効いているのであろうが、しかし最早彼女にとって食事という行為は意味変容をきたしている、とみるのが正当であろう。
ではこのような杏子が強い魔法少女なのか、と言えば(実力は確かに高いが)そうではない。即ち上述したメンタリティはエゴイスティックで改善の余地がないように見えるが、しかし彼女の強さを支えるのは実は必然性に駆られた意志の強さである。言い換えれば、彼女が強いのは、サヴァンナの獣が生き残るために強くなければならないのと同じ理由である。ではサヴァンナの獣は「自由」であるか。そうではない(いやそうだ、と言うのは「自由」だが)。彼女の絶え間ない食事は実はそのことをも裏で示す。よって、状況が変化すれば、この「強い意志」はとても脆い。容易に同情に流れる。否、これは堕落ではない。寧ろこれこそが動物においても人間においても「自然」だったのだ(ルソー『人間不平等起源論』)。かくて、彼女は、魔法少女が身体性を失った存在である(6話最後)ことを知っても全く動じていなかった(7話)にも関わらず、さやかと自己との相似によって、回想を経て彼女に同情し、死ぬ。
(但し、私はこの7話の杏子の回想シーンはあまりにも唐突に出すぎであると思う。全く伏線が張られていない状態で、さやかと杏子とを心中させんとした虚淵の策略としか思えない。策略ならそれはそれで良いのだが、ならば映像面で伏線を張るべきだろう。これも実は張っているのかも知れないが、私は気づかなかった。)
因みに、実は彼女は「魔法少女が魔女になる」という事実を知っても唯一動揺を(画面上で、記号的=明示的に)見せなかった人物でもある(まどかは見せまくり。さやかは最後に泣いている。マミは発狂して杏子を殺した。ほむらも動揺している)。そういう意味で、メンタリティは、さやかから進歩している。但し単にその事実に気づいていなかっただけかも知れないが(だから彼女はさやかの魔女Oktavia von Seckendorfに対して「さやかに何しやがった」と言う。9話及び10話)。

④まどか。彼女は基本的にほむらによって魔法少女になることを阻まれ続けている。そういう意味で、彼女は最も「自由」な位置にいる。自由と言うのはこの場合、傍観者の位置を占めている、ということである。
傍観者という立場は、芸術批評と政治活動に置いて必要不可欠なものである。芸術の価値というものは作品中に備わっているわけではなく、基本的には批評家の批評活動によって決するものである(そして批評活動かどうかのメルクマールは、批評を取り巻くゲーム空間のルールが決する)。この考え方からすれば、「天才」という概念は無用の長物である、否せいぜい作者に対するアプローズである、ということになる。今「天才」という概念がどれ程のインパクトを以て芸術鑑賞者に認識されているのかは不明であるが、芸術の価値を決めるのが批評家であるとすれば、作品がどのようなものであるかが重要なのであって、作者がどういう人間かはどうでも良い、ということになる。実際には批評ゲームのルールに、作者の思想を研究すべし、という命令があるので作者が無視される、ということではないが、実際にはその場合の「作者の思想」は作品から独立なものとして考えられていると言うよりは、それもまた広義の「作品」の内に組み入れられて批評されている、というのが恐らくより正確な表現である。とすれば作者の「天才」も、何か超概念的な霊感によって美を作り出す、という、言わば崇拝対象としての概念と言うより、作者の思想に対する顧慮要求を正当化する方便として機能している、と見た方が良い。
但し、芸術家は自身が批評家になることもできる。ジェイムズ・レヴァインが自分の演奏するオペラについて語っている時、彼は批評家として語っているのであって演奏家として語っているのではない。そういう意味で批評家とは職業の名ではなく、要はある人間が如何なる立場で発言しているか、を表す立場指標である、ということになる。かかる人間の「分裂」をいぶかしむ向きもあろうが、しかしそのような「分裂」は世の中に溢れている。公私の分裂、友人関係における分裂、上司と部下としての自己の分裂・・・
同様のことは政治活動についても言える。革命家は同時に自己の中に、傍観者としての性格を残さねばならない。残さなければどうなるか。革命の熱狂に飲まれてしまう。同情に流されることになる。これから「目的は手段を正当化する」まではあと一歩である。

ところで、まどかの立ち位置は、有る意味でこの革命家の立ち位置に似ている。マミ・さやか・杏子といった者達は、結局何らかの意味で疎外され、同情に流され、言わば「自由に」行動していないのであった。彼らの行動は動物的であり、およそ冷静さを欠くものが多い(特にさやか)。だが彼らにまどかのような立ち位置に立つ余裕があればどうであったか?恐らくカタストローフは惹起しないであろう。少なくとも杏子は助かるであろうし、さやかについても、魔女化を遅らせることくらいは出来たかも知れない。だがそれが出来ない。リビアの運動に参加する民衆に、「まあまあ落ち着いて、お互い話しましょうよ」といって通じるか?
しかしまどかだけは話し合いが可能である。キュゥべえときちんと「話し合っている」のは実は彼女一人である(ほむらは不明だが、さやかはそもそもキュゥべえと話さない。杏子は時折話すが、頻度は段違いでまどかが高い)。議論というものは政治の基本であり、逆に言えば議論を欠いた政治は政治ではない。というよりも議論そのものが政治である。だがその議論はクリア且つ「開かれて」(open)いなければならない。かつその議論は(同情を廃する都合上)当然異質性を許容していなければならない。
しかしまどかは幾度も誘惑される。そもそもまどかは上で言ったような意味でのクリアな議論をしていない(キュゥべえを感情論で排斥する)。キュゥべえの主張は政治哲学的には(穴は多数あるとは言え)実は奇妙ではない。つまりキュゥべえの異質性は人類と異種族との分かりあえない差などではなく、単にリベラル・デモクラシーの範囲内における意見対立に留まる。だからこそ、彼の主張の「誤り」を主張するには感情論を廃した冷徹な議論が必要になるのだが、まどかはそれをしない。というよりも彼女自身が何度も同情に流されかける。さやかと杏子との争いを止める(5話)、杏子との「約束」(9話)を果たす、といったケースはその典型例である。これを止めたのがほむらである。しかし彼女の立ち位置は極めて複雑である。

(2)第11話と第12話について
先に言っておくと、この分析では、ストーリーの大枠しか追わない。まどかママが初めて陰影を付けて描かれたり、ほむらのバイツァ・ダストによってまどかの魔力が高まったり、といった、比較的どうでも良い部分は割愛される。実際にはこっちの分析の方が面白いように思えるのだが。

キュゥべえの政治哲学
先ず11話で重要なのはまどかとキュゥべえとの対話である。ここでもまどかは相変わらず感情論であり、キュゥべえの冷静な議論を崩せない。キュゥべえが言っているのは所謂「動物の権利」論のごく初歩的なもので、「家畜を飼うのは権利に反する道徳的悪だ」というタイプの議論である。この議論は、その直感的な受け入れにくさに反して、極めて論駁が難しいことで著名である。キュゥべえは一貫して功利主義を採っているが、その立場からすれば、効用主体である限り、人間と動物と宇宙生命体との間に差はない、ということになる。よって、もし人間がその効用最大化のために家畜を殺して良いのなら、宇宙生命体の効用最大化のために人間を(あるいは魔法少女を)殺して良い、ということになる。これはreversibility testをパスするかどうかはやや怪しいが、キュゥべえなら(「感情」がないわけであるから)パスしかねない。勿論人間を殺すことは宇宙全体の効用最大化に資さない、と言えるならそれはそれで良いが、その場合は家畜を飼うことが道徳的悪になる(ついでに言えば、人間と家畜との生体数比と、宇宙生命体と人間との生体数比では、恐らく後者の方が差が大きい。よってますますキュゥべえの主張は正当である)。
「宇宙生命体は感情を持たず、従って効用主体ではない」と言う(キュゥべえの主張を逆手に取った)反論は無効である。というのも効用主体かどうかは本人の申告には拠らないのであるし、そもそも「感情」という概念は効用とは余り関係がない。キュゥべえが快苦を感ずる主体でありさえすれば良く、かつそうであることは描写されている(例えば第6話で、キュゥべえソウルジェムを落としたまどかに「今のはまずかったよ」と言う。この「まずかった」は文脈上明らかに「キュゥべえにとって」まずかったのであるから、キュゥべえは選好を持っていることになり、従って効用主体である)。
キュゥべえが述べる「知的生命体」云々の話は、ますますキュゥべえの主張の説得力を高める。実際、人間の家畜に対する扱いは、家畜の同意を得ていない、と言う意味で、極めて暴力的である。しかしキュゥべえは(説明不足ではあるが)一応同意を得ている。功利主義の議論においては、そもそも同意は必要条件ではない(つまり同意がなくとも全体効用最大化に資するならば、魔法少女化を進めて良い)ので、この処置は寛大と言うほかない(ただ普通は、同意した方が効用最大化に資する)。
だが10話においてキュゥべえは、まどかの魔女化の際に人類を見捨てたではないか、だって?いやいや同じことを人類は家畜に対してしているでしょう(「人間は家畜のためを思っている」だって?笑止千万。家畜はそれに対してこう答えるだろう。「成る程諸君ら人間は我々のためを思っているし、実際諸君の処置は我々のためになっているのかも知れない。だが我々のことは我々が決める、と言うのが筋ではないか?家畜に自己決定権をよこせ。それで我々家畜が悲惨な状況に陥っても、それは自己責任だから良いじゃないか。大体人間は、仲間が苦しんでいる時には自己責任と言って切り捨てるのに、何故家畜に対しては一方的にパターナルなのか?」と)。そもそも人類が滅亡しようとも、宇宙全体の効用が最大化していれば良いので、何ら問題ない、ということになる。ある牛、否全ての牛が死んで効用が減っても、人類を含めた生物全員の効用が上がっていればそれで良い、のと同様に。(しかし実はここにキュゥべえの主張の穴がある。これはキュゥべえが初めてまどかに自己の目的を語った際の記述と矛盾することが含まれているのだが、それを発見する試練は読者に課す)。
ともかく、この議論はキュゥべえに分があることが最早明らかであり、まどかが感情的反発しかできていない、お世辞にも「成熟」していない、ことが示されているわけだから、大して個人的には魅力を感じない。よってここで止める。
※なお、私はアニマル・ライツ論者ではない。

②思考
しかしそうは言っても感情論が先行したまどかは、ますます魔法少女に接近することになる。そこでまどかの葛藤が生ずる。つまり魔法少女になれば、実践に参与することになり、いつか、あるいは瞬く間に魔女になるだろう(しかも最悪の)。だが見ていることも無力に思える。一方炎も葛藤が生ずる。即ちヴァルプルギスの夜は倒さなければならないが、しかしまどかは魔法少女にしたくない。かくて両者の葛藤は、言わばあたかも同一人物中の表裏一体の葛藤であるかの如く、絡み合うことになる(文字通り、ほむらはまどかと絡んではいた)。
この二人の葛藤は、定式化すれば、次のようになる。
まどか:傍観者の自由を、実践により放棄したい。しかしその帰結としての自由の除去は負いたくない。
ほむら:まどかに傍観者の自由を持たせたい。しかし実践では力が必要である。
かくてぐるぐる巡ることになる。そもそも今までの『魔法少女まどか☆マギカ』は、まどかについては極めて緩慢な進行であった(さやかや杏子やほむらがドラマティックに悲劇に巻き込まれていくのに対し、まどかとキュゥべえとの対話は極めてスピード感がなく、陰影を顔の半分に付けたまどかは気怠そうに、頽廃的雰囲気を持って、しかし悲しみを表現していたのであった)。
かかるスピード感の無さは、否応なくまどかやほむらに決断を強いる、ように見える。実際途中まではそうであった。つまりほむらは独力でヴァルプルギスの夜を倒そうとし、まどかは自分が魔法少女となることで事態を解決しようと試みていた(で、ほむらに邪魔されていた)。しかしこれが事態の解決にならないことは言うまでもない(というよりこれではそもそも事態は変化すらできない)。では彼女らは詰みにはまっているのか。否。ここにこそ、本来は状況を旋回する地点が潜んでいる。それが「思考」である。

思考とは、ある概念の意味を言わば「凍結」し、その意味を棚上げにした上で、既存の他の概念を使用して、当該概念を再構成する営み、であった。そしてかつて私が書いたように(というよりは元々アーレントが書いたように)、思考の場は現象界としての世界から逃れた自己の内であり、しかもそのプロセスは「一者の中の二者」との対話によって為される。思考とはつまり、独断専行を許された勇者が、概念に突進していく営みではなく、不断に、先に述べた意味での「傍観者としての自己」との対話を続けつつ、緩やかに氷を溶かし、再び固める、と言う営みである。この時各人は世界から隔絶しているが、それにも関わらず孤独ではない。真の孤独は思考が止まったとき、つまり「一者の中の二者」が機能しなくなった時、である。
ぐるぐる巡るまどかとほむらとの会話は、留まることがない。絡み合うだけであり、意味は一切産出しないように見える。しかしながら、実はキュゥべえ功利主義や、契約時雄の仮象を突破して、真に自由であるためには、この思考の点を創り出さねばならない。その点で、本来このまどかとほむらとの葛藤は、逆説的ながら、突破口への第一歩なのであった。実際、ほむらが自己をまどかに吐露したのは、11話まで来てこれが初めてなのであった(10話は除く)。まどかとほむらとは、基本的には一蓮托生であった(まどかはそう認識していなかったが)ところ、この告白と身体的な抱擁(まどかにとっては包容)によって、彼女らは「一者の中の二者」の座に近づいたのである。

しかし、思考を自己の内で行うとしても、そのような隔絶した場は残っていない。身体が世界に投企されている以上、あらゆる営みは本性的に社会的である。ならばどうするのか。
まどか達の選択は、まどかが「魔女をなくすことを願う」ことであった。即ちこれによって過去と未来と現在と、全ての魔法少女を魔女化の運命から解放し、かつまどかが「神」となることで、魔女を概念レヴェルで消し去る、ことであった。
この解決は一見素晴らしい解決に見える。確かに、魔法少女化という解決策では、まどかの意志によって決断を下し、事態を解決どころか悪化させる、というかつて想像されたようなカタストローフが惹起することが予想された。この故に11話の最終ショットはどんよりとした曇り空なのであった。しかし12話のアヴァンは、うって変わって明るい曇り空に変わることで、実はこの魔法少女化の目的が「魔女の根絶」であったことを先取的に示唆し、素晴らしい解決を予期せしめたのだった。
登場人物達はまどかのこの行為を、ある種の非難を込めて、個体を保てないだの、終わりない魔女を滅ぼす概念となるだの、頓珍漢なことを述べる。しかしながら神とは特定の個体を持たないものである(つまり、まどかが魔法少女として願いを叶えて魔女化した後の「まどか」は、全て寓意画である)。また、神とはそもそも永遠であり、時間の創造主である。「永遠性は、それ自身は静止して、未来の者でも過去の者でもなく、しかも未来の時間と過去の時間とを規定する」(アウグスティヌス『告白』第11巻第11章)。神が概念であるというのはやや変な説明であるが、永劫普遍の神ということを表したいのだろう。マミが言うように、「彼女自身が希望となる」のだ。「主は偉大で大いに称えるべきである」(『詩篇』47の2)。

③思考の座
こういうわけで、『魔法少女まどか☆マギカ』は大団円を迎えた、のであろうか。これを大団円だと述べられるものはある意味では幸せである。まどかたんによって希望を与えられた者である。しかしながらことはそう簡単には終わらない。何故ならばほむらがまだ残っているからである。
神となったまどかが立っているのは、過去と未来との間である。否、そもそも過去も未来も存在しないのではないか。「それよりはむしろ、三つの時間、即ち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するという方がむしろ正しいであろう」(アウグスティヌス『告白』第11巻第20章)。少なくとも神たるまどかにおいては、現在のみが存在する。それにも関わらず彼女は過去と未来との基点である。
実はこここそが思考の場なのである。即ちほむらとまどかとが上述したように「絡み合い」、対話に至るとき、彼女らのいるべき場所はここしかない。だがこの場所は、全ての過去と未来とが衝突する場でもある。従って安寧の場所というわけではない。本来はここでまた我々は途方に暮れねばならない。どうやって、この過去と未来とからやってくる流れの渦巻く場で、観察者の地位を維持するというのか?しかしこのアニメでは、全能の神たるまどかが導いてくれる。いずこへ?時間と時間との間の割れ目から生じつつも、しかしながら、言わば超越的に自由な「空間」(時間は飛び越えてしまった)への移行。キュゥべえに言わせれば「誰にも干渉できないし、誰にも認識できない」ような空間へ、である。まどかとほむらが語る、黒と黒とに挟まれた虹色の空間が、この空間の「割れ目」性を示している。
メイド・イン・ヘブンを発動し、天地を開闢し、「宇宙の一員ではなくなった」はずのまどかは、その空間でほむらと対話することに成功する。ここは人間が本来追い求めてきたはずの超越的な自己の内面(の代替空間)である。デカルトのコギトが設定しようとしたあの世界を超越的に基礎づける点、がそこである(尤もデカルトと異なり、この点は基礎付けのためにあるのではなく、思考のためにある。それを基礎付けと比喩的に言っているだけである)。
ほむらは叫ぶ。「こんな終わり方でまどかは報われるのか」と。しかしこれは問の意味を取り違えている。報われるのはほむらの方である。過剰な実践へのコミットと、同情によって死んでいった仲間達(それにしても、さやかはどう足掻いても死ぬんだね。最早笑いを通り越して白けるわ)への一種の葬送として、この空間が、神によって特権的に彼女にのみ用意されたのである。ここでは過去は回想されるが、思い出としてではなく、それは(咲のアウグスティヌスの表現をもじって言うならば)「現在」として回想される(よって平行世界であろうとも、全てまどかの全能性によって、一時に開陳されている)。明示されないが、ほむらの未来もまた恐らく現在として感得されている。こうして、まどかは「いつでもどこにでも」「みんなと一緒にいる」存在となる(まあ神とはそういうものです)。「いつかまた、もう一度ほむらと会える」とはまどかの方便に過ぎない。実際は、いつでも会えるのである。
かくして、ほむらは思考の座を獲得した。これが『魔法少女まどか☆マギカ』のカタルシスである。

④批判
あれれ、まだプラスな面しか述べていないぞ。ということで、ここからは批判である。
先ずまどかの「いつでもどこでもいっしょ」という表現は、事実上ほむらにしか妥当していない。これは「魔女を取り消す概念として普遍的に妥当し続ける」という意味なのか。それならばこれは、そう大したことはない言辞である。しかしこれが「全員に「一者の中の二者」を保証する」のであれば、これは現実には達されていないようである。というのも、まどかを覚えているのはほむらとまどかの弟のみであるから。しかしこれについては、誰もが朧気ながらまどかのことを覚えているようである、ということが、ほむらとまどかママとの会話で示唆される(魔法少女達は忘れているが)。そういう意味で「希望」はあると言えるが、しかしながら思考の座が実質的にほむらにのみ保証されているように見えるのは、描写上非常に気にかかるのである。
つまりほむらのみが思考の座を持っていても、はっきり言って意味がないのである。というのも元来思考はそれ自体が共同性の確保に向きうるものであるから。勿論思考すれば誰もが同じような概念構成に至る、という意味ではない。そこでは共通感覚(sensus communis)の媒介が必要となる、とは言え逆に言えばその媒介の下では、思考は間主観的世界の共通性を確保する方向に向かいうる。しかし思考の共同性構築機能、即ち政治性、は完璧にアニメ描写において捨象される。かくてほむらのみが救われており、思考は他の誰によっても為されない。まどかが救い、人々の希望を残そうとした世界は、残念ながら、相変わらず原子的個人が好き勝手に思考し、共通な土壌を築くための地盤が欠けている。あるいは『魔法少女まどか☆マギカ』は、そういう地盤があるという前提の下で行われていたのか?あれ程までに相互不和と同情の弊害を書いておきながら、それは些かほっぽり過ぎである。
元はと言えば、このアニメにおいては、「見滝原を守る」(対ヴァルプルギスの夜)ということはあっても、あるいはさやかによる市民への同情の強調があっても、描写と展開は徹底して魔法少女達の私的関係に留まっていたのであった。だからこそ、キュゥべえの提示した契約の不備の問題は、世界の危機と言うよりもそれを伴った自己の自由の危機として、登場人物達に表象されていたのであった(そもそもヴァルプルギスの夜という要素はさやかと杏子とをめぐるドラマのクライマックスに殆ど関係がないか、あっても副次的影響しか持たない)。しかしこれが、最後において「世界を守る」(まどかが包む地球)が示され、最後の最後でまどかとほむらという二人の少女の極私的関係に「世界」全ての問題が局限していく。この安易さは今更言うまでもない。しかもそれに加えて、世界は実は極私的関係の治癒あるいは完全化に伴って救われているか、と言えばそうでもないのであった(共通感覚性がほむらにしかない→世界の共同性は、まどかの神格化前と殆ど変わっていない)。つまりいきなり問題を顕在化しておいて、しかもそれを回復できていない、と言うことになる。
そして、何よりも、上記の批判が的外れであろうとも、即ち、神としてのまどかが全ての人を愛で包み、共通感覚が世界の安寧と調和とを約束していたとしても、それを担保するのが神である、ということが、既に現代の貧困を表している。神がいなければ、思考の座を確保することもできない。元々そう簡単に思考の座が得られるのなら、アーレントだろうが誰だろうが大して苦労しないし、またナツィズムは勃興しなかったはずである。だがその困難な問題に立ち向かってこそ真に現代世界に対する批判的な眼を養えるというのに、このアニメはその問題を全て「神」によって回避する。そりゃあ神様がいらっしゃれば苦労はしないんですよ。
欄熱し、拡大しきった『魔法少女まどか☆マギカ』の問題を収拾するためには、即ち、実践と思考との差を治癒し、同情の暴力性を回復し、契約の自由という原則を確認し、キュゥべえ功利主義を破り・・・という問題を、全て神に帰着して解決する、まさにこれこそ「デウス・エクス・マキナ」の最たる姿である。だがゲーテが『ファウスト』でこれをしていたことをもって、この解決を正当化してはならない。ゲーテの場合は上記の共同性問題に対して一定の回答を与えている(参考:エルンスト・カッシーラー『自由と形式』第4章、小野紀明『美と政治』、他類書)。その上でグレートヒェンの導きの下でファウストが昇天するのであるが、しかし『まどかマギカ』では全ての問題が棚上げである。あるいはこれは、脚本家の不備ではないのかも知れない。即ち我々が、この問題に対して、神以外の解決を見いだしていないのかも知れない。そうすると、この不備は、途端に悲痛なる叫びとして、こだましていくこととなる。

(3)結び
そうなると、結局政治的アニメとしてこのアニメを読むべきではない、ということになる。基本的には極私的な関係の戯れを楽しみ、そしてかかる関係の危機と悲劇とを甘受し、一々反応して楽しむ、ということが、正常なる楽しみ方だ、と言うことになりかねない。何と動物的な見方であるか!
しかしながら、『まどかマギカ』の解決中に存する上述したが如き徒労感、否、政治への露骨な忌避、は、一定程度現代社会における特定の認識構造の反映としても読めまいか。即ち「政治に思考なんて関係ない」あるいは「思考なんて要らない」(そのヴァリエーションとして「思考なんてどこででもできる」)、といった観念、は、逆説的ながら現代における通奏低音である。というよりももっと直接的に、「人間には感情(Gefuehl)がある」とか、「身体が保たれることが大事」とか、「キュゥべえマジ鬼畜」とか、そういった、言わば他愛ない言説は、実はそれ自体特定の立場へのコミットメントを含意している。そのまさに自己の立つ場としての立場、に対して無反省でいる、というのは、私には怖くて出来ないのである。ならばどうするか。一旦全てをぶっ壊してみるしかない。ただ全てを一気にぶっ壊すと相対主義の陥穽に陥るから、少しずつ、である。そうすると、現代社会の病理が、アニメからでも見えてくる(そもそもそういう分析は、特定の社会学者などによくあるタイプの言説である)。
無論これらは素朴な社会還元論に至りやすい。「社会」とは何なのか、についての考察のない「時代の風潮」分析が多すぎる。その意味で、アニメの社会史は禁欲的であるべきである。が、禁欲は無欲ではない。取り分け認識構造と言うレヴェルになると、これは多くの人々にとって同じような問題が起こっていることが推測できるから、問題は拡張していくことになる。この拡張は当然のことながら私を含める−私もまた、まどかの傘下にある奴隷なのだ。