レオ・シュトラウス『ホッブズの政治学』(1)

さて、某古代ギリシアの「知の巨人」を読むゼミも終わったことであるし、やっと少々の暇が出来たので、ここらで読んだ本の感想でも書こうと思うのである。さしあたっては、本日図書館に帰す義務を負っているレオ・シュトラウスホッブズ政治学』についてである。
もっとも、私は当該著作をきちんと理解できているわけではない。そもそもホッブズの著作自体『リヴァイアサン』しか読んだことがないのであるから、ホッブズ政治学におけるアリストテレス主義などと言われても確証する術がない。それ故ここで記すのは実に感想という域を出ない雑多なる主張に他ならないが、しかしこれを記すことは私の思考の整理と今後のホッブズについての知見を深める為に少なからず有益であると考えるから、書くのである。なお引用は適宜改変しているから、原テクストをそのまま写しているわけではないことをお断りしておく(とは言え論旨変更は行っていないつもりである)。

さて、『ホッブズ政治学』は以下のような構成からなる。
(1)序論
(2)道徳的基礎
(3)アリストテレス主義
(4)貴族の徳
(5)国家と宗教
(6)歴史
(7)新しい道徳
(8)新しい政治学
本書の問題意識は、「従来の政治哲学と根本的に決別した」近代政治学の祖たるホッブズ政治学シュトラウス本人はこれを誤りとし、マキアヴェッリこそその祖であるとしているが)を、その自己理解に即して解釈すること、そしてそれこそが「政治哲学の歴史」の適切な時代区分に資するというものである(序文16頁)。以下、これを全て検討することは不可能であるから、私が興味を持った部分のみを取り上げて若干の外観を挙ぐ。

(2)道徳的基礎
シュトラウスによれば、ホッブズ政治学の特徴の一つは「自然科学からの独立」即ち政治学の原理は人間の経験・自己認識の努力によって得られるとされていること(10頁)にある。即ち人間は自らに働きかけることで自然の状態から市民へと自己完成に至れるのであり、その意味で国家(Commonwealth)の市民は「自然的存在」ではない。かかる人間は自然の下で「自然的欲望」と、「理性」とを持つのである。人間は動物と異なって無限に欲望する。「人間というものは自発的かつ継続的に、したがって無数の孤立した知覚によって喚起されるであろうあれこれの無数の孤立した欲望の総和のゆえにではなく、欲望というものの一つの奔りという形で、力を、それもますます大きくなる力を欲するのである」(13−14頁)。この際限ない自然的欲望は、人間の「虚栄心」にその根拠を持つ。そしてこの「虚栄心」の故にこそ、自然状態は「万人の万人に対する闘争」に至るのであり、リヴァイアサンが「高慢を抑制する」ものとして定位されるのである。
しかし、ホッブズはこの「虚栄心」を政治学の基礎にはしなかった。何故なら、彼は人間の自然的悪性を否定し、虚栄心に基づく人間的欲望を道徳とは中立的に理解する(道徳的に悪なのはそこから導かれる行為である)、と主張するからである。人間が動物的であっても、それ自体では悪ではない、ということである。それ故、ホッブズ政治学は別の「人間的自然の極めて確実な」第二の要請、つまり「自然的理性」を要請し、これは自己保存の原理に還元される。しかしそこでは最高の善としての「自己の維持」というより、反対現象としての「死」の回避が「不道徳、悪」として語られ、この意味において欲望の道徳的限界付けが機能する(「悪なるもおのに照らしてのみ、欲望の限界付け、人間の生の統一的方向付けが可能である」、21頁)。そして最大の悪は単なる死ではなく「暴力による死」であり、その故に「自己保存という理性的な原理ではなく、前・理性的な(というのも死への恐怖は理性以前のものだから)、とはいえ効果としては理性的に作用する(というのも死への恐怖の回避は理性的な自己保存要求として作用するから)、暴力による死への恐怖こそが、あらゆる正しさの、したがってまたあらゆる道徳の根源なのである」(22頁)。

かくして、自然的欲望と暴力による死への恐怖が対立する。そして人間同士の関わりの中で、虚栄心に基づく他者への優越欲求が、「思いがけずに」死の危険を発生させる。自己評価を正しく行い得ない虚栄心を持つ人間は、他者に優越性を承認させようと努力し、結果彼らは互いに傷付け会うのである。こうして、人間は、虚栄心が敵と認めるものたちを殺すのではなく(何故なら彼にとっては「全ての人が」敵であるのだから、「敵」の殺害は彼にとって一時しのぎに過ぎない)、「暴力によってまたは合意によって」仲間を獲得するのである。こうして、自然的欲望は、暴力による死の恐怖へと転換され、やがて政治社会の構成に至るのである。
この「死の恐怖」はホッブズにとって道徳的に「善」なるものである。信約の不履行を不正義とする議論もここに由来する(つまり行為者の意図と良心によってその道徳的価値が判断される)。だから、ホッブズにおいては「一方において道徳と無関係な動物的欲望と、他方における道徳と無関係な自己保存への努力との自然主義的な対立」ではなく、「原則的に不正な虚栄心と原則的に正しい暴力による死への恐怖との、道徳的な人間中心の対立」が存在している(34頁)。


これがホッブズ政治学における道徳的基礎である、とレオ・シュトラウスは言う。通常ホッブズ政治学は道徳的基礎からは無縁の、「唯物論的」「自然主義的」なものとしてよく解釈されるが、この解釈はある意味そのような解釈に対して、ホッブズ政治学のある種「アリストテレス的な」道徳主義的要素(もっともこれはこの著作の後半において、ホッブズ政治学の展開を見るとともに解離が主張されることになるのではあるが)を読み込もうとする新しい試みである。このような読み方がホッブズ解釈としてどこまで正当化されるかは不明であるが(一説によれば、これは「名人芸」的なものであるらしい)、少なくともここにはレオ・シュトラウス独特の問題意識、即ち「近代性」(modernity)の根源をホッブズに求め、そこにおける「古代的意識」の隠蔽の構造を抉り出し、もって「近代性」の構造を根源的に示すということ、があると思われる。しかしながらこのような問題はシュトラウスのほかの著作、例えば『自然権と歴史』などを読まねば分からないことであるから、ここではそれらについて触れることは出来ない。