『魔法少女まどか☆マギカ』第1話の感想

かなり内容と映像とを忘却しているので、的はずれなことを書くやもしれぬ。その場合はそれが判明し次第コンメンタールにて修正する。この常態的修正更新可能性の存在が、ネットに言論を書き加えることの一つのメリットである。

本アニメは、新房シャフト+虚淵+蒼樹+梶浦による魔法少女ものという、アニメを見る前からカオスだと分かる布陣であるが、アニメが始まると、蒼樹の絵以外についてはそれほど違和感なく入り込むことが出来た。そもそも新房と梶浦とは既に『コゼットの肖像』にて仕事を共にしていたのであるし、そしてそこにおいては新房特有の極端なショットと遠方からの機械的なオブジェクト描写、退廃的なストーリーに、梶浦の暗い音楽(梶浦は暗い曲を書こうとすると常に同じような曲を書くので、直ぐにわかってしまう)が上手くマッチしていたのであった。無論『コゼット』では、デビューした井上麻里奈の演技がややハイトーンに過ぎ、コゼットの持つ機械的(乃至は人形的)な魅力を上手く表現できていない、という欠点は存在した(但し、デビューしたてであったことが幸いし、抑揚のある演技を全くしていないことが、可愛さと機械性とを両立させることに成功した、という見方もあろう。また第3巻において、コゼットは単なる保護されるべき対象から、主人公を誘惑し破壊する蠱惑的なfemme fataleへと変貌するのであるが、井上はこの難解な役変化を繊細に感じ取り、実に魅力的な演技をしていた事も確かである。元より井上は単純なヒロインではなく、こういった複雑な内面を孕むデモーニッシュな役柄が最も似合うのである。これは梶浦作曲のエンディングテーマを、井上が男と見間違えるかの如きドスの利いた低音で歌っていたことからも看取されるであろう)。しかしゴスィックホラーの描写において、新房の演出と梶浦の音楽とが親和的であることを示すには十分であった。頽廃的で破滅的なストーリーを好む虚淵が、ここに溶け込みうるのも、容易に予想できるであろう。
問題は蒼樹うめである。蒼樹といえば『ひだまりスケッチ』の如き所謂日常性を象徴する作家である。これが前述の暗黒集団に入ることは如何にも異端的である。しかしながら、蒼樹の日常的な絵は『まどかマギカ』内での日常性と非日常性との先鋭な対立の中に吸収され、逆に日常的なものが非日常に混入してしまうという側面を輝かせることによって、魔法少女ものに本質的に付随する明暗対立を浮き彫りにし、日常をキャラクターを媒介して日常の元に留まらせながら、彼らをして同時に魔法の行使という非日常へと追い込む正統性を与えたのである。かくて『まどかマギカ』は、まどかがまどかでありながらマギカであること、「何故こんなにかわいい普通の女の子が?」という疑問を、さしたる説明もなく解決したのである。かくして、蒼樹の絵は、必ずしも説話論的必然性から暗い作品に馴染むものではないものの、設定の対比をキャラクターへと記号的に付与することで、「世界観」とも言うべきものの構成の一助となったのである。

元より「魔法少女」というのは非常に奇妙なジャンルである。何故魔法と少女が結合する必要があるのか?魔法男性では何故駄目なのか、というより、そういったキャラクター類型があるにはあるとしても、何故それが固有の一ジャンルとしての地位を主張するに至らないのか?勿論このジャンルの存在理由を究極的に規定するのは、可愛い女の子の扇情的な変身シーンであったり、年齢の低い幼児などの全能感を満足させることであったり、あるいは両者の結合、即ち主たる視聴層たるオタク達の、女子への性欲と先頭における英雄的活躍とをエコノミカルに結合して顧客の満足に資すること、などであろう。しかしアニメの読解はそこで終始してはならないのであって、ここでは更に、魔法少女アニメに通底する精神構造(無論精神分析的意味ではない)をも射程に入れようとしているのである。
さてともかく、かような観点から魔法少女ジャンルを俯瞰すると、そこに一つの重要な要素が多く含まれていることに気づく。それは、魔法の使用が、魔法少女による主体的契約の外観によって許可される、ということである(無論夢野サリーの如く、「生来の魔法少女」ならば話は別である)。日常を平凡に暮らし、友人と歓談し、青春を謳歌していたはずの少女が、突如として非日常の決起に遭遇し、自らの意志で「魔法少女の契約」を結び、非日常の暴虐へと対応し、それを打ち倒す。これが魔法少女アニメに見られる一つの文法的パターンである。
しかし、この「契約」は、実際には契約の名とは程遠い代物である。第一に少女は契約法上の主体になることは本来出来ない。未成年者は後見人(典型的には保護者)による、契約の解除が(日常的取引をのぞけば)可能である。しかし一度契約が結ばれれば、彼女は最早解除を許されない主体として定立され、あたかも成年の如く扱われる。かくして「魔法少女の成長」が、法的主体の問題へと仮託され、表象されるに至る。
とは言え、全ての魔法少女が、契約からの脱出を否定されているわけではない。中には契約解除を合法的に認められているケースも存在する。このような場合、魔法少女が尚魔法少女をつづける動機付けとしては、「同情」が最も大きな役割を持つこととなる。というよりは、主体的「契約」により魔法少女となる場合においても、その契約を結ぼうとする最大の動機は、理性的決断と言うよりはこの同情である。この場合、少女の成長を法的主体の構成へと仮託し、全能的な成人を構築せんとする営みは、感情の介入により混濁せしめられる。同情は政治的問題ではない。それは個人が、通訳不能な個人へと没入すること、乃至は通訳不能な個人と自己との間に共通の類的概念を定立することで、かかる類というコードから他者の状況を一方的に断罪する、すぐれて暴力的な営みである。かくて魔法少女の契約は、ヤクザの押し売りと同義となる。こうして主体は溶解し、「魔法少女」は、単なる英雄的な力を持つだけのヒーロー(ヒロイン)として描かれることとなる。

以上のような観点を保持しつつ『まどかマギカ』を視聴すると、まどかが魔法少女になるきっかけが優れて非政治的なものであること、もっと言ってしまえば恫喝によっていること、これらが瞬時に明らかになる。冒頭の白と黒との無機的オブジェクトに囲まれるまどかは既に世界から孤立している。まどかを見るものは誰もなく、まどかを聞くものも誰もいない。ただまどかは即物的に「ある」。このような状態では、そもそも契約の締結は望むべくもない。従って、キュウべえが「魔法少女となれ」と要求する場合、それはまどかの意志を問うているのではない、より正確には、契約締結の意志を問うているのではない。彼(彼女)が問うているのは、まどかが目の前でやられゆくほむらを見て「同情する」か否かであり、逆に意志を欠いているかどうか、ということなのである。「こんなのってない」というまどかの同情が、結果的には彼女をして魔法少女たらしめるのであろうが、そこでは彼女の意志ではなく寧ろ意志のなさ、これがその魔法少女化へと彼女を導くモーメントとして作動する。
このようなわけで、まどかの魔法少女化は、既に初めの時点で、非日常の世界が否応なく迫ってくるのに対して孤立したまどかがそれを一身に引き受けざるを得ない、という状況に裏打ちされている。蒼樹うめの絵が、この状況を更に強化して提出する。即ち明らかに場違いな可愛い女の子を強制的に機械の荒野に引き出すことによって、彼女が戦わざるを得ないこと、そして彼女は日常を放棄して非日常へと行くように強要されていること、を表す。だがこの決断は既に述べたように覚悟ではない。況や実存的努力でもない。このまどかの魔法少女化は抗いがたい「運命」である。しかもまどかは、マキアヴェッリが説いたように、この運命に対してヴィルトゥにより応対することも許されない。何故なら彼女の魔法少女化には意志がないから、つまり、言わば腹が減った人間が、やがては人肉に手を出さざるを得ないのと同じ意味で、「仕方ない」から、である。

一方まどかの日常については、『ひだまりスケッチ』に示されたが如き牧歌的世界が、これまた『ひだまりスケッチ』に登場した諸声優(後藤邑子新谷良子)を起用することにより「引用」される。こちらは魔法少女の戦いを描写する世界とは異なり、徹底的に明るく描かれるのであるが、ほむら(声優は斎藤千和であり、これは戦場ヶ原ひたぎを想起させ、非日常からの日常への闖入者の感を呈している)の存在によってそれは早くも崩壊の予兆を見せる。ほむらはまどかに問う、汝は日常が脱化せられることを望むか?と。望まざれば去れ、と。しかしこの忠告は、冒頭にて示されたまどかの憐憫の情が輻輳されることにより流されてしまう。かくて、やはり魔法少女になることは、必然として表象されるに至るのだ。

かくて、『魔法少女まどか☆マギカ』は、必然性が日常からまどかを強制的に非日常へと引き込むことによって、強制的に両者の対立をまどかの身体の上に描き出し、もって彼女をしてこの対立に悩ませしむる準備を整えたのであった。先述した如くこの対立は、元来はまどかの意志とは無関係に、まどかの下にある。しかし魔法少女という装置が、この対立をまどかの外徴的決断へと結合せしめ、もってまどかは今後自らの(本来は存在しないはずの)意志内対立に悩ませられることとなるのである。要するに、『まどか☆マギカ』は、最初から単に記号の戯れのみを扱っていた、ということになるわけだ。とすればこれは新房シャフトの十八番であろう。今後、まどかが自らを取り巻く記号の体系から実存的決断によって脱しうるのかどうか、が、説話論的問題として注目される。