『魔法少女まどか☆マギカ』第2話・第3話の感想

私はかつて、魔法少女アニメが「非日常の日常に対する必然的介入」というモーメントを有しており、もって「魔法少女」を法的主体としての擬制することにより彼女の主体化・成長を示さんとする試みが、不断に必然性の表徴によって揺るがせられ、成長せる魔法少女が情念の奴隷となる可能性を内包した危うい均衡の下に立つこと、そしてこのことが、魔法少女をして必然性と自由な意志・決断との間で常に苦悩せしむる可能性があること、これらを示したのであった(「『魔法少女まどか☆マギカ』第1話の感想」)。この緊張関係は、『まどかマギカ』第3話において極限に達し、マミ(黄色い人・水橋かおり)の死によって放出せしめられたのであった。以下は主としてこの問題について扱う。

先ずそもそもマミはそれ自体が死という必然性の下に包摂せられようとしていたのであって、彼が魔法少女となることはそれ自体ある必然性から別の必然性への移行でしかない。異なることと言えば魔法の世界が非日常の世界における必然性を表徴しているのに対し、死が日常・紛う事なき現実における一種の非日常を代表していることであるが、かような場所の問題はマミにおいては最早どうでも良かったのであって、かくてマミは死によって自由を担保せる世界を去る代わりに、魔法少女になることによってかの世界を去ったのである。成る程交通事故にて死に向かい合うことによって、マミは自らの人生を回顧し、自己という存在の儚さ、人生に対する悔恨、生への強い意志を実感し、それにも関わらずそれらを全て引き受けて、死への「決断」をしたのであろう。しかしながら実際に死が近づいたときに初めて行われるかかる決断は、最早存在の輝きを増さずただ彼を必然的に「深い闇に包む」のみであって、生ある時のに本来体験されるべきであったかような絶対的孤立の中での沈思黙考は、最早較べ馬の如く時間によって鞭打たれ、死の勝利に向かって突き進むのである。かくてマミの決断は全く人間の自由とは無関係に行われたのであった。
この点で、マミの死は既に定まっており、あとは形態・外徴としての死をその身体の上に再現すること、これだけが必要であった。何となれば、かかる外徴なしに人間は世界を去ることを認められぬからである。かの外徴は、思想史上においては成る程身体の消滅・魂が肉体を去ること、云々と様々に思惟されてきたものの、何もせずに世界を去ることは認められないのであった(唯一の例外は精神病患者であるが、このことを今検討する余裕も力量もない)。かくてマミは、内的な死と外的な魔法少女としての必然的活動の中で常に苦悩してきたのであって、これがマミをして「誰も助けてくれない」との心情を抱かしむるに至ったのである。
ところでかかるマミが初めて繋がりを見つけたのであって、それが「まどか」と「さやか」(青い人・喜多村英梨)であった。彼らがキュゥべえに認めらるることは、マミにとって自己の分裂を真に理解、否同情してくれる可能性の発見であった。マミがまどかやさやかに優しくするのもその故である。要するにマミは同情してほしかったのであって、これによりマミの外的疎外−内面と外徴との間の分裂と、それにも関わらず必然的に魔法少女として戦わねばならない、という「仮面(persona)をつけた演技」−は、治癒、否止揚される契機を持つに至る。『まどかマギカ』が、映像的に執拗に黒と白との色彩モチーフを対立的に用いようとするのも、元々はこの分裂を表現せんとするためなのであった。だからこそ、まどかが父親(岩永哲哉)と会話する際には、それが夜の闇の中で行われているにもかかわらず、彼らの表情は(光学的に)明るいのであって、その後必然性の誘惑者たるキュゥべえが描かるる時には、明るいまどかの部屋で会話しているにもかかわらず、彼の表情は光学的に暗いのである。

personaという要素は、現代の法においても重要である。元々これは先に示したとおり演劇時に装着する仮面なのであるが、更にそれは公的領域における政治主体の有り様を象徴する語として定位されるに至ったのである。現代の我々が好んで用いる「人格」(person, personne, Person)という概念もここに由来する(その意味で「人格障害」という言い方はやや変である。これに限らず現代精神医学は精神病理学的視座を放棄したことに伴い、融解に向かっているような気がする)。「自由な自然人が契約の主体になる」という言明は、本当は自由かどうか分からない、というよりそもそも自由とは何なのかさえ分かっていない人間が、仮面をかぶってさも「自然人」であるかの如く振る舞い、もって彼に「主体性(あるいは意志)」と「責任」とが帰属することを「擬制」しているのである。だがこのような扱いは、本来personaを取り巻いていた精神状況からは最早乖離している。即ち確かに演劇者はpersonaを被るものの、それは演劇者が平板な、平均化された存在であることを含意しない。一体演じられるリチャード3世やジュリアス・シーザーやオセローが「平均人」である、などと言う者があろうか?そしてそれは、演じられる仮想のcharacterだけではなく、それを演ずる者にも当てはまる。演じている人間は、単に舞台の上でリチャード3世の「尋常ならざること」を再現(mimesis)しているのではない。彼自身が既に「尋常ならざる者」なのである(尤も、それを判断するのは観察者の側なのであるが。即ちcharacterとしてのリチャード3世は歴史家が、personaとしての役者は観客が判断する)。そう言う意味で、現代の契約主体としての人格概念は、最早各人の個性をpersonaの中に押しとどめる作業でしかない。このことは、魔法少女が真に自由な主体であるわけではない、という私の議論を裏打ちするものである。そしてこれは、占有(possessio)概念の死滅と形骸化が関係している、のかもしれない(ここは受け売り)。
さて、ともかくマミはpersonaをつけることを強要され、疎外を感じていたところ、同情してくれそうな体の良いカモ(まどかとさやか)を見つけて、自己の内に取り込もうとしていたのである(最早この点で、彼女がやっていることは魔女に近い)。同情とは、正にルソー『ピュグマリオン』にて示される如く、相手を自分の者とし、同時に自分を相手の者とすること、これである。かくて「あなたはわたし」というロマン主義的統一が達されるのであるが、周知の如くこの措定は、例えばカントの如き道徳的主体、「人格」(尚カントのこの概念には、先述したpersonaの残り香がある)による、自然的自己のコントロールという考え方とは異質である。カントの場合は自己の格率を道徳法則に適合せしむることによって、完全な主体による「目的の王国」が提出されるに至るのであるが、ロマン主義は最早かような機械的な国家構築は拒否し、寧ろ同じカントの『判断力批判』をその聖典として仰ぐことになるのである(このアニメが度々引用するゲーテは、例外的に『判断力批判』だけは高く評価したのである)。こうして、全人格−無論これは仮面と公私峻別を旨とするpersonaから乖離している−的な相手へのコミットメント、「同情」が、疎外の救済法理として崇拝されるに至るのである。「あなたはあなたであれ(Sei was du bist)」は、マミには耐えられない(第1話でほむらがまどかに語った「あなたは鹿目まどかのままでいい」という台詞はこれを連想させる。無論この発言の真意は、まどかをして必然性の枠に収めんとする非日常の狡知の誘惑によって、日常を脱化するなかれ、という意味であろうが)。マミは他者になりたかったのである(この逆が、『ドリアン・グレイの肖像』であることは論をまたない。かくて『まどかマギカ』は、『ドリアン・グレイ』を範とする『コゼットの肖像』へと繋がっていくこととなる)。
だが最終的にマミ自身が、魔女に取り込まれてしまった(3話)。これは自業自得でもあり、かつ元々行くべき所に戻った(そもそもマミは交通事故の時に死んでいたのであるから)、という点で、何ら悲しむべきことではない。そもそも食事とは他者の生に対する支配であると同時に、他者を抽象的に自己とすること、自己が自己の元に留まらず他者との関係性の網の目に否応なく縛られていることを認識した自己が、先ずこの普遍的自己をあくまで普遍的たらしめんとして他者に対してとる行動、でもある。であるから魔女がマミを捕食することは、実は自業自得であることをも越えて、最早マミの願いの充足でもある。マミは死によって別の必然性に移行したのみである、とは先に述べたとおりであるが、それにも関わらずマミは、生涯続く「死」という同情を手に入れたのである。

無論上述のような解決は極めて後ろ向きな解決である。これは、神との一体的統一を感じ、恍惚の内に自己の身体を焼却する、という行為に似て、ヘーゲル大先生ならば絶対に容認しない解決法である。しかし残念ながら、真の意味での自由という基盤は最早現代では失われている。その点まどかは異様である。即ちまどかは魔法少女になることそれ自体を願いにしようとしたのである。まどかにおいて、魔法少女は単なる必然性の貫入ではない。願いと代償に魔法少女になることは、その願いから高貴さを奪い、かつ願い(wish)を「欲望」(desire)たらしめる。たとえ「世界に平和が訪れますように」と願ったとて、魔法少女になることによってその願いが叶った瞬間、そのこと自体によって、世界平和という願いは個人の利己的欲望へと帰着されてしまう。さやかが男の子(名前を忘れた)を助けんとして魔法少女になろうと決意した際にマミが「あなたは彼を助けたいのか、それとも恩を売りたいのか」と問うが、魔法少女になってしまえば最早そんなことはどちらでも良くなってしまう。非日常からの闖入者は必然性を身に纏い、少女に仮面という名の鎖をつけながらこう問いかける;「欲望とは何か?全てである。(Qu'est-ce que le désir? Tout.)今日まで、欲望の道徳的地位はいかほどであったか?無。(Qu'a-t-il été jusqu'à maintenant dans l'ordre moral? Rien.)では欲望は、あなたに何を望むか?何者かになることを。(Que demande-t-il? Il vous demande de devenir quelque chose.)」と。否、何者かといった婉曲表現を使うことは止めよう。魔法少女は「道徳的人格」(personne morale、周知の如くこれは「法人」という意味でもある)なのだ。こうして、魔法少女はいつの間にか欲望の奴隷となり、非日常の奴隷となり、循環した無意味な生を送る動物へと成り下がるのであるが、この疑問を持ったかて、魔法少女は無力である。何故ならば契約の魔力が、彼女をして主体たる幻想を抱かせしむるから、即ち、「君は自分でこれを選んだのであろう」というイデオロギカルな言明が、彼女を納得せしめるからである。
まどかはここから脱さんと欲した。まどかは「魔法少女になること」を願いとしたのである。ここで魔法少女は、全てを欲望化させる機能を停止し、それ自体目的として定立されるに至る。尤も、これも「人助けをすること」というように欲望を抽出されうる可能性もあったのであるが、まどかはその方途を採らず魔法少女になることそれ自体を目的としたのであった。ここでは、契約は契約それ自体を目的とされて、瓦解されざるを得ない。元々契約は必然性の網の目で縛ることをその究極目的に据えていたとは言え、なおも欺瞞的な主体構築の仮象を見せるために、奴隷契約という契約だけは認めなかったのであった(マミの場合はそれに近いが)。だが真に強い主体は、意志と欲望を最早分裂せしめることはない。そこでは英雄の欲望はそのまま意志であり、従って欲望は意志にコントロールされると同時に、彼女の行為は自由でありかつ必然的なものとなる。必然性を帯びた非日常と、自由だがぬるま湯の如き安穏たる生を送らざるを得ない日常との対立は、蒼樹うめの絵と劇団イヌカレーを中心とする無機的オブジェクトとの統一によって象徴的に示されていた如く、まどかの中で融和する。
であるから、まどかはマミが魔女に捕食されても尚魔法少女になることはなかったのである。元より同情は、まどかの行動原理ではない。同情による統一は、外的世界と内面との間の齟齬を満たす真の解決方法ではないからである。まどかは魔法少女になるために魔法少女になることによって、その意志を真に自由なものとする。そして魔法少女という名の必然性=死とへと向き合い自己の意識を洗練させたまどかの契約は、真の意味での「決断」として、まどかの生の充溢を輝かせしむるだろう。そしていち早く魔法少女になる意志を見せたさやかは、その願いが他者を助ける、という本質的にエゴイスティックな要素と結びつきやすいものであるということもあって、今後まどかより先に魔法少女になるだろう。そして彼女は、意志と必然性との間において、あるいは自己と世界との間において分裂を経験し、不幸な意識(unglückliche Bewußtsein)に苛まされることとなろう。

上記のような事情が、全ての魔法少女に当てはまるのかは定かではない。ほむらが何故魔法少女を行っているのか、というか他に魔法少女がどれくらいいるのか、そういった設定が伏せられている以上、上記は映像から読解される要素の単純な提示に留まり、従って憶測の域を出ない(元々アニメを真に論ずるには、最終話まで見なければならないのである)。特に、出来事的にはまどかやさやかの魔法少女化を救ったのはほむらの介入であったのだから、その性格規定や行動原理の解明は重要である。また、魔女とはそもそも何であるか、といった設定の提示も必要であろう。無論設定とは制作者が勝手に定めたものであって、作品の分析にはあまり意味をなさない。作品の読解は、時折設定を無視、否破壊することすら必要とする。しかしながら設定が存在せずかつ映像表現もそれ程量がないような状況下では、読解や解釈の指針さえ生まれることなく、さながら途に転がる小石の心情を解釈するが如き、糠に釘的営みが生じかねないのである。

なお『ファウスト』との関連について付言する。本アニメで引用されるドイツ語は『ファウスト』のものが多いと聞く。ここからメフィストフェレースをキュゥべえに、魔法少女ファウストに準える向きが多い。しかしながら『ファウスト』の問題は、上述した「不幸な意識」に苛まされ、現実への積極的なコミットメントを失いつつある典型的なロマン主義的人格をメフィストフェレースが堕落させ、世俗化していくこと、ここにある。つまり『まどかマギカ』とはヴェクトルが逆なのである。一方キュゥべえは、必然性の狡知に魔法少女を押し込めるという点ではメフィストフェレースと同じであるが、これによって正に当該少女は「不幸な意識」を持つに至り、最終的には分裂に耐えられないまま死を迎えることが多いのである。
しかしマミの死の際の悦楽感覚は、正にメフィストが狙うところの「堕落」ではあるまいか。上述したようにマミは魔女に捕食されることで遂に自己の目的を達し、もって浄福に至ったのであって、マミが魔女を目前としても捕食される恐怖を顔面に出さず、かつアニメーションが捕食の場面を執拗に描こうとしない、という事実がそのことを裏打ちしているのであった(勿論放送コードの問題もあろうが)。そしてこれはマミが自己の存在承認を後ろ向きに達成したが故であったが、この後ろ向きの存在承認という形での現実融和こそが、メフィストフェレースがファウストに感じさせようとしていた当のものだったのである。かくてキュゥべえは、知ってか知らずかメフィストと同じになってしまったのである(勿論それはキュゥべえ本来の意図ではない。先述の如く、キュゥべえ自体はメフィストとはヴェクトルが逆である)。この意味で、キュゥべえはいわば、自分がしていることに気づいていないという点で、かなりの手練れた悪魔であると言えよう。だが実際のファウストは、メフィストフェレースの意図に反して、真に現実をも取り込み、理想と現実、特殊と普遍との融和を達成してしまい、メフィストフェレースの狙いとは別の意味で、真の美をそこに見いだしたのであった(元々「時よ止まれ」は、現実における美の探求ということに局限されていたのであった)。そしてまどかの態度こそがこれに符合する。成る程まどかもまた死を迎えるかもしれない。しかしそれはマミの如く、堕落して地獄に堕ちるか、あるいは自己の欲望が満足されたことにより性的恍惚を感じながら死ぬか、といった次元での死ではないだろう。だがマミでさえ、死という同情が永遠に彼女の存在を承認していたのではなかったか?然り。それは彼女にとって堕落ではなく寧ろ幸福ではないのか?然り。だがまどかの迎えるだろう死、そしてそれに付随する幸福は、そのような幸福とは異質であろう。それは真に自由な主体が、神との合一を絶対的に感じながら迎える死であって、正にロマン主義者が求めても届かなかった死であって、彼女はその特権的な死を、マミやさやかを後目に、一人強き者、「英雄」として、味わうのである。