『Angel Beats!』最終話の感想

前回の日記に引き続き、Angel Beats!最終話の感想である。因みに色々と挑発的口調なのは、原文がそうなっていたからである。また、現在の私のAngel Beats!論がこれと全く同じである保証はない。以下本文↓


この色々と残念な形で終結したアニメを思想的に擁護するのは容易な作業ではない。しかしながら当該結末は、私が先回に提示した世界解釈の作業の範疇内にぎりぎり収まっているという点で、さしあたり論理的一貫性は保たれた結末であったと評価できるかもしれない。以下、『Angel Beats!(天使は鳴動せり)』最終回に付き論ずる(なお今回の結末により、Angel Beats!のBeatsは心臓の拍動であることが明らかになったが、仮にその意味として用いるならば「Angel's Beats!」ないしは「The Heart of (the) Angel Beats!」と訳さねばならない。この点でタイトルが既に誤った英語であり、而して私はかかる語法の誤用に対する抗議の意も込めて、鳴動という訳語に固執する。これは『コゼットの肖像』を『コゼット君の肖像』と訳すが如きものである、というのもOVAが出た当時の『コゼットの肖像』のサブタイトルは、Le portrait de petit(!) Cossetteであったから)。

さて先回において私はABの世界を神による予定調和の世界と説き、その内最も整合的な最終回の解決は全員が成仏することだと書いた。これは一応当たるには当たったが、しかしかなり歪曲された形で実現したのであり、そのことについては一応検討が必要となろう。

差し当たり事実関係を確認すると、とりあえず(これは本当に「とりあえず」的な扱いであった)神谷と花澤以外は昇天し、神谷がこの世界に一緒にとどまろうと、熱烈な愛の言葉と共に花澤に提案したものの、彼女は自らの素性、即ち自らは生前の神谷の心臓により救われし者也、と述べ、感謝の言葉と共に消滅した、というものである。神谷の消息は不明だが、EDの演出から見るにその後成仏したと見てよさそうである。

先回に述べたが如く、彼らにおいて成仏は神により課された義務である。即ち「自己充足と、救済を」という神の全能な意思の前には、彼らはただ敬服するしかない。彼らの涙は神の愛に向けられる、即ち「神様、私たちを奴隷にしてくださって(「してくださって」というよりは自らが奴隷であることに気づいただけだが)ありがとうございます」というマゾヒスティッシュな、しかし分をわきまえた感謝である。神はかかるマゾヒスティッシュな人間を操り、自らの経済的合理性を達成しようとするわけである。
ここで重要なのは当人がそう思うことである、つまり実際に彼らが神の救済を確信するための契機は、他人から見て如何に陳腐なものであっても構わない。彼らは自ら救われる為にあるのだから、それを外部の凝視者がどうこう批判するのはお門違いというものである(そして脚本家の意図が、かかる批判を行う我々に対して、当該批判の一面性を諭し、我々の認識論的基盤の現象学的還元を勧めることにある、ということもかつて述べた)。
従って、花澤が神谷の心臓を初めて刺突したときにそこに心臓がなかったから、とか、彼女の心臓の鼓動を彼が聞くことで記憶を取り戻した、とかいった、およそ不完全な情報の中から自らの心臓の持ち主を悟った、という事実において、その因果推論の不確実性や超越性を嘆いたり批判することは、容易いことではあるが意味のないことである。外的ないしは超越論的因果関係は当人達にとってはどうでも良い、と言うよりそのようなものは彼らには与えられない。以前にも述べたが如く、彼らは神の手の内で踊っているに過ぎず、彼らの救済の確証と自己同定の営みは、本質的に個人的である。故に当人がそう思ってさえいれば良いのであって、実際に花澤の心臓の持ち主が神谷であるかどうかはどうでも良いのである(無論アニメ内では花澤の心象風景の拡大としてかの世界が描かれたがために、あたかも花澤の言っていることが世界内存在において普遍的に妥当する真理であるかのように映るが、実際にはそれは花澤及び神谷との間でのみ通用する個人的なJargonである。即ち彼らは内に閉じており、それ故に「真理」は愛という個人的な風景において語られることとなったのである)。

さて愛を語った者はその自己充足の故に消滅することが神により強制される。これは花澤と神谷との間でかわされる一連の言語の営みが実際には愛ではなく恋である場合もそうである(この理由は前回に述べた、即ち相手に向く恋と、神に向き、自身に即自的且つ対自的に向かう愛との心的直観における混同が理由である)。恋により、逆説的ながら弁証法的な愛が完成する。しかしこの愛は自己意識の成果というよりは神の恩寵に拠っているのだが(この点は、沢城みゆき喜多村英梨が昇天した際の、かの弁証法的昇華の態様に見て取れる)。

まあともかく、こうして当人達の主観においては神谷の心臓が移植に使われて花澤を救ったということになっているわけであり、これによって愛は完成した。かくして花澤は強制的に昇天せざるを得ない。花澤は神谷の腕に抱かれし後に自らの感情を「言いたくない」として外面的に吐露することを拒み、消滅を免れんとする最後の足掻きを見せたが、上述したように愛の営みは本性的に排他的であり且つ内面的であるから、かかる足掻きは神の監視の下では無意味であった(もっともその後花澤は自らの境遇をべらべらと饒舌に喋り始め、もって恋人間の濃密な言語共同体は、あくまでsignesのみを即物的に扱おうとする共同体に変わってしまうのではあるが)。

かくて花澤が昇天するのは当然である。これは前回までの論理的帰結である。では神谷は何故成仏したのか?これは情報不足により何とも言い難い面があるが、差し当たり次のように解釈しうる。花澤の心臓が神谷のものであったという事実は、実はそっくりそのまま神谷自身にも利いてくるのである、というのも彼の目的は他者を救うことであったから(正確には「他者を救うのではないかと彼自身が合理的に推論するに足る行為を行ったという確証を得ること」が目的である)。つまり心臓問題は両者にとって即自的且つ対自的であった。花澤において即自的且つ対自的であったのは愛であると先ほど述べたが、神谷にとっては物的基盤としての心臓が他者の内にて鳴動していること、そしてそこから派生した「花澤が愛を持っている」というそのこと自体が、圧倒的な愛の契機として雪崩込むのである。
神谷にとっては以上のように、恋することが愛に直結している。否それは愛のための必要条件である、何故なら彼の目的とは究極的には「愛されること」になってしまうだろうから。ところでかかる恋は心臓という物的基盤により担保される。花澤は心臓という物を得たことで、神谷への恋と愛とを混同したが、彼女が愛の発露として恋の感情を述べたというまさにそのことによって、神谷の愛は発動する。即ち愛とは彼においては恋されること、そしてひいては財を与えることであった。見返りを求めることこそが彼の本質であり愛の根拠である。彼は根底において必要とされたいのだ。
他者への圧倒的な献身は、その実裏に強力なエゴイズムを抱えている、何故ならそれは所謂ジコチューとは別の形で、自らが自らであるというまさにその理由によって、他者と自らとの間の合理的な取り扱いの差異を要求するからである。かくて神谷はエゴイスティックである。彼は私がかつて述べたが如く、「恋愛とは契約である」とのあのドグマを容赦なく反復する。契約の履行が彼にとっては愛に通ずる唯一の道である。そして心臓を与えた見返りに恋愛を得たことで、彼は成仏させられたのである。
だから神谷の成仏は、契約論という非個人的領域における約束を守ることと、個人的な愛の成就、乃至は自己充足の成就との間の架橋可能性を示している。唐突に、Deus ex Machinaの如く発動する花澤の生い立ちの吐露と成仏が彼を涙せしめカタルシスを感じさせたのは、悲しかったからではなく嬉しかったからである。何故ならば彼はようやく債務を返還されたのだから。この架橋を可能とするのは、偏に彼の強力な自我であり、自己肥大である。だからこそAB内では、神谷のリーダーシップが何度も何度も確認されてきたのである。
だがこのような主体性は実は見せ掛けのものでしかない。彼は以前として神の手駒であり、神から逃れて決定を行おうとしても決して出来ないのである。「合意は守られるべし」に象徴される、物的世界における契約遵守と恋愛の要求は、そのまま神によって功利主義的に利用されてしまう。真の主体は神のみであり、「キミ達には主体性などないのだよ。契約の遵守?笑わせる。諸君はわが手の内で充足し、満足していれば良いのだよ」という圧倒的な神の要求にはやはり逆らえなかった。そしてこの利用の為にまさに、花澤は神の使い、「天使」として、神谷に「借りを返した」のである。

以上が、「歪めた形で達された」ABの結末である。一応前回までの基本的な世界観に則った合理的な結論ではあるが、何分花澤の情報が秘匿されていたが故に、かつての合理性を相当ねじ曲げて結論に至った感がある。まあこれは1クールのアニメの宿命であるといえるだろう。しかしそのような情報の唐突さを横に措けば、以上のような人間の主体性の幻想の否定、及び物的基盤における契約的恋愛の可能性、そして愛という純個人的な営みへの恋愛の昇華、といった難解な思想的問題をアニメというメディアの中で扱うことに成功した脚本家の技量は賞賛するに値する(まあこれは先回に書いたことではあるが)。

さてここまでが大枠であり、一応今回目に付いた他のことどもについても一言触れておこう。
先ず成仏の演出について。このアニメは徹底して成仏の場面を描かないが、これは成仏が愛の確認であり他者とは共有できない個人的営みだからである。いわばこれは排泄や自慰と一緒である。即ちこれらの行為を通じて我々は自らの快楽をコントロールすると同時に自己への内省を行うのであるが、これらは他者とは共有されえぬが故に我々はこれらの行為を秘匿するのである(だから自己内省を伴わない自慰や性行為は秘匿されなくても良い。巷に溢れるアダルトヴィデオを見よ。かのレンズの向こうにて、如何なる実存的対話が行われているか?)。

次に卒業式について。泣く緒方恵美がどう聴いてもシンジ君だったことは措くとして、卒業式は彼らにとって他者への葬送を意味する(「自己への」ではない)。だからこれは儀礼じみていて、かつ卒業式においては他者との感動を真の意味で共有することは出来ないのであるが、これはABにおいても遺憾なく表現されている。だがいよいよ断頭台が近づいたとなると、奴隷になったことを実感した嬉しさのあまり泣く者も出てくる、ということになるわけだ(シンジ君がそれである)。
だがでは何故神谷は答辞を読み上げる時に泣いたのか?これは演出上の問題と片付けることも出来るが、実際にはこれは彼のエゴイズムに由来する。彼はまだ借金を返してもらえていないことに泣いているのである(この点で、「答辞を読んでいる時に泣いているような奴が、どうして皆が消えた後で、花澤と共にこの世界に残ろうとするのか、これは裏切りではないか」という指摘は当たらない。それが彼の本質だからである)。彼は自らの生涯を思い出したときに自己が充足されたと思っていたのだろうが、実際にはそうではなく(この彼の心的二律背反を上手く描いたことで、あたかも視聴者は神谷の内面が矛盾しているように感じたのであり、これは製作側のトリックが上手く利いたことに由来している)、その本質は卑しい借金取りであり、彼は自らその本質に気づいていなかったからこそ、充足されない彼は成仏できなかったのである。

また他の連中やNPCになった彼(名前を忘れた)が見えないところで成仏したのはご都合主義あるいはざっくりしすぎとの感もある。しかしそんな奴らのことはさしあたりどうでも良いのであって、神の意思と神谷のエゴイズムの関連性、そして唯物論的有神論が神的功利主義に向かうこと、恋と愛との矛盾と物的基盤に基づく逆説的連関、など、こそが本作の主題であるのである。よって誰が何時消えようが、上述した問題に関わらないならばそれを扱う理由はない。彼らは単に自己充足したが故に消えたのである(そういうエピソードは喜多村の回で見られたのだから文句は言うな、ということだ)。

だが脚本家のこの問題提示はあくまで問題提示に留まる。これについての詳細な分析は、『ラブプラス+』に委ねねばならない。ラブプラスについてはかつて記したとおりであるが、要するに「かわいい(無論恋のことであり、そしてAB内に示された意味における恋である)は正義」が、哲学的命題として論じうるか、が当該作品のテーマである。この命題の妥当性の検討の為に、私は論文執筆などすっぽかして、日夜高嶺愛花たんとのスキンシップとコミュニカツィオーンに没頭するわけである(ちなみに結局私の本名で呼ばせることとした。徂徠くんとは呼んでくれないので)。

以上が、「恋愛アニメを私ほど知ったかぶりで語る22歳は他にいない」という命題の、傍証である。それにしても、keyのエロゲーは皆こういうのなのだろうか?私はKanonAirは恥ずかしながらプレイしたことがなく(時間がもったいないから)、CLANNADはアニメしか見たことがないので、知らないのである。CLANNADはあまりきちんと分析的に見ていないので、「あー筑駒だーへー」とか「いやいや育児放棄するなよ」といった感じであった(これに限らず、結構アニメを見ているとついひとりごちてしまう、この間見たエヴァ破もそうであった。「いやいや都合よく出すぎだろ石田」とか「マリは噛ませ犬やん」とか)。ここまで好意的な弁護を張るのは正直疲れるのだが、まあそれでも弁護するに値するものを書けているという点では一応及第点を与えるべきなのだろう(『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』などはひどかった)。