『となりのトトロ』の感想

因果関係とは、外的に存在して万人に知覚されるものではなく、多分に主観による策定作用を要請する。「燃えている火に触れると熱い」のは、科学的に熱エネルギーがどうこうという説明を行うことは可能であるが、実はその説明は普遍的ではなく、その前提として万人に当該原因と結果との認識が普遍的に共有されていることを前提とする。「火」を知らぬ天才物理学者は、「燃えている火に触れると熱い」ことを認識することが出来ないのである。
(このあたりの議論はかなり怪しいと自覚しているから、こういう方面に詳しい人々は是非僕を批判すること。)
更によしんばかかる原因と結果の事態認識が共有されたとしても、科学的因果関係の認識それ自体が一定の前提(反証可能性とか)の下に成立している以上、ある共同体において科学的な認識が常に普遍的とは限らない。馬鹿ばかりの集団においては、科学ではなく神話が因果関係をより普遍的に説明するのである。これは確かにトランスポジショナルな普遍性を持たないが、それにも拘らずその閉じた共同体の中では普遍的であり、一定の権力作用を持って人々の認識を拘束する。

となりのトトロ』において惹起している事態も要するにそういうことである。トトロの存在は、差し当たりサツキとメイにとって、あらゆる因果関係を説明する普遍的な基体である。序盤にメイとサツキの足が汚れ、ばあちゃんが「すすわたり」(これは妖怪なのでしょうか?民俗学については全くの門外漢なので良く知らんのです)を口にする時、彼女らにとって黒い物体は因果関係の説明者として共有されるに至った。彼女らにとって煤が科学的に如何に生成するかはどうでも良く、例の黒い物体を探求することが差し当たり因果関係の探索において重要となる。いわば黒い物体は、彼らにとっての原子であり、従ってその探求は彼らにとっての科学である。
メイは科学的探究の結果トトロという神的存在を観念するに至った。トトロはその実在は普遍的には示されず(だから人々はトトロの姿が見えない)、メイとサツキとの間でのみ共有されるコードではあるのだが、それにも拘らずトトロは彼女らにとっての神である。だがこの神は全能の存在として顕現するわけではない。全ての因果関係を一身に引き受けるトトロは、メイとサツキとの間主観的世界の神に過ぎず、従ってその行動は全てメイとサツキとの間に元々共有されている規範に従う。トトロは主意主義的な神ではなく、「自然法」に従うのである。

このことは、父親をバス停にて待つシーンにて如実に示される。トトロは初め葉っぱを頭にかぶせて現れるが、サツキから傘を貸された後は傘に水滴が落ちてその音を聴くを愉しみ、そして地響きを招いて水から雫を垂らすことでその現象を反復させるのである。これはトトロの全能性の証左であるが、にも拘らずこのシーンのトトロは不合理である。何故ならば、もしトトロが森の主であるならばこれまでも雨に遭っているはずであり、そして頭に載せた葉っぱに水滴が垂れる音も聴いたことがあるはずである。成程傘におけるビニールの張りと葉っぱの張りとでは異なるから、傘に落ちる水滴がよりヴィヴィッドに聴くことでトトロは楽しんだのかもしれないが、周知の如く葉っぱもまた水滴音をヴィヴィッドに響かせることは可能である。トトロは傘など借りず、バス停に現れるや否や水滴を地響きにより垂らし、頭に落とせば良かったのだ。
では何故トトロは傘を借りたか?それは、「傘をなくした」という世俗的理由を、トトロという因果律の根源に帰するためである。勿論帰するというのはサツキとメイとの主観的作用であり、トトロが現実の存在として、世界内存在として存在していることは、この映画の中では例証されない。だがそれでも「サツキとメイにとっては」存在していることは確かである。
そしてトトロが、雨を避けるという意味では殆ど意味がないにも拘らず葉っぱを頭にかぶせてバス停に登場するのは、さつきとメイとの間に次の共通了解が存在しているからである、即ち「雨が降ったら頭を濡らしてはならない」と(ここを「傘を差さねばならない」と共通了解していないのは、彼らが機能主義的思考をしていることを意味し、従ってサツキとメイとの精神年齢の高さを想像させる)。この共通了解にトトロは従う。トトロは神であるが、それはサツキとメイとの妄想の産物である以上、彼らにとって了解可能(verstehbar)でなければならない。かくて、神は抑制されている。

トトロや猫バスが他人に見えないのも、それがあくまで「サツキとメイにとっての」神だからである。共通了解を持った両者は、トトロと共に樹を成長させる夢を見るが、この際に彼女らの父親が生長した樹を見ても何の驚嘆もしないことが、その証左である。あそこで描写されている父親が夢の中の存在であろうとなかろうと、父親にとってトトロという神は必要ではない。否、正確には逆なのだ。父親は最早トトロ化(totoren)されてしまっており、自らの経験に与えられた因果関係分析に盲目なのである。「火に触ると熱い」ということに慣れ切った我々は、最早それを一つの客観的真理であるかのように扱うが、それは我々の体験に由来する以上「世界的」(weltlich)ではあり得ない。世界においては内的感情は共有できないからである。では「火に触れると熱い」という言明は何なのか?それは「馴化された共通の幻影」である。この点については後に触れる。

だが、事態は映画の後半から変化してくる。メイの失踪騒動において、最終的にサツキはトトロの力を恃むのであるが、元々トトロは因果律の根源として、サツキとメイとの間にのみ存在していたはずである。それが外界の現象に干渉することなどできるのか?トトロは「然り」と答え、猫バスという武器を呼ぶ。猫バスもまた、バス停のシーンにおいては単に因果律をサツキとメイとの中で完結させるという優れて観念的な役割しか持っていなかった(というのも、トトロは万人に対して主張できる神ではないから、父親に対してその姿を見られてはならないのである。で、トトロを上手く去らせる装置として猫バスが用いられたわけだ)のだが、このシーン以降猫バスは観念から飛び出して実体化する。猫バスはあくまでサツキとメイとの間における神の道具であることを止めず、従って人間には見えないのであるが、それにも拘らずサツキをメイの下に実際に届けることに成功した。共通の自慰は既に外界と化した。サツキとメイとは、既に自らが現実世界において全能の存在と化したことを知り狂喜する。そして彼らは自らが意志するままに、母親のお見舞いに行くのである。

サツキとメイとはとうもろこしを母親に届けることに成功した。これは大人たちの現実的な外界、言わば科学的因果関係の世界に、猫バスが媒介となってサツキとメイとの妄想的因果関係が貫入したように読める。だが実際はそうではない。大人の世界もまた主観的認識にその因果関係を由来する、要するにトトロ的世界(die totorische Welt)でしかないのである。あの村の大人達は強固な共同体を形成し(だからメイが消えた時に皆でメイを探したのである。バイクに乗っていたカップルについては、外部の人間であるから例外である)、もって神話的な共同の幻影を形成していた。これが彼らの因果律についての思考を平準化し、彼らの間に共通性と対話可能性を与えていたのである(この点については第1段落を参照のこと)。
つまり、サツキとメイとの外界認識と、大人たちの外界認識に大差はない。だからこそ大人達の世界もトトロ的なのである。とうもろこしのお届け成功はそのことを暗喩している。だが大人たちは自らの認識形態を根源から反省することまでは出来ない。父と母との「あの樹にサツキとメイとがいた気がする」の「気がする」はそれを暗示する。彼らはトトロ化されているとはいえ、トトロそのものを信仰することは出来ない。彼らには彼らのトトロがいるのである。

しかしまだ話は終わらない。やはりトトロは初めの内は単なる当事者主観内における因果関係の根源としてのみ存在していたはずであり、それが現実の実力を伴って大人達の世界に介入するのは、仮に大人達の世界がトトロ的であったとしても、考えがたいことである。実は、ここにサツキとメイとの「成長」(Bildung)が現れている。即ちトトロが猫バスを使役し、それが実力を持って現実に介入したという事実は、サツキとメイとが単に間主観的な因果関係を策定していたという事態から、大人の「トトロ的世界」へ、即ち現実的な暴力行使を伴う「トトロ的世界」への一歩を踏み出したことを意味する。
だがこれは「成長」であると同時に「形成」(Bildung)でもある。誰がサツキとメイとを「形成」したのか?勿論それはトトロである。子供たちにとってのトトロは、子供たちを大人たちにとってのトトロ=共通コードへと仕立て上げる。こうして共通コードに人間は順応化していくわけである。これは初め観念上の、非主意主義的存在として、間主観的にのみ策定された神の形象が、実力を持った客観的で主意主義的な存在として定立されていく過程でもある。子供の馴化の役割を終えた観念上のトトロは、やがて巣穴に戻っていく。そしてこの後は、トトロは見えないまま、共通コードとして、トトロ的世界の中で中央監視塔として働くのである。監視塔は大人になればなるほど隠蔽され、大人たちは自らが共通の監視塔に支配されていることに鈍感になる。「子供の頃がよかった」とは、この監視塔の存在に気づく最後のチャンスである、ということを意味する文句である。まさにトトロは「となり」にいるのに、誰も気づかない(あるいは気づこうとしない)のである。
こうして、サツキとメイとの間に生まれたトトロという形象は、規律権力の端源として聳え立つことになる。大人達はトトロを探求することを許されず、従ってトトロに従う他ない。大人達は無意識的に、真理としてのトトロを外部に引証点として設置しながら、トトロ様に従おう従おうと努力しているのである。サツキとメイとも、この権力から逃れることは出来なかった。猫バスという全能の実力機構に触れることで、彼らは甘美な権力を味わった。彼らは自己が全能であるとすら錯覚した。これを見てトトロは次のように嘲笑う。「君たちの全能感は所詮僕が用意してやったものに過ぎない。まあ良い。せいぜい全能感に今のうち浸っているが良い。ゆくゆくは君たちも、僕という神の掌の上で、僕が立てた法に従うことになるのだよ」と。

トトロはかくして恐ろしき話である。歩こう歩こうと唆されて行き着く先は隷属である。「歩くの大好き」とは本人の主観的な選好表明に見えるが、実はトトロというコードによって強制された道徳でしかない。「君たちは歩くのが好きに決まっているよね。だからどんどん行こうか」と、我々は剣を持ったリヴァイアサンに強制されているのである。そして貪欲な権力機構は、動物すらも支配対象に取り込み、挙句の果てに「友達いっぱい嬉しいな」とすら嘯く。それらは友達ではない。奴隷である(もっとも奴隷との間に友愛が成立すること自体はあるだろうが)。
故に、「猫バスがかわいい」とか「トトロ萌え」とか言う者は自らの置かれた境遇が分かっていない。まあ彼らにとってはわからなくとも良いのかもしれない。権力とは必ずしも負の方向に働くものではなく、彼らに快楽をすら与えるものなのだから(この点、トトロが母親の病気でも治せば、あの映画は完璧であったのだが、そうならなかったのは残念である)。