『借りぐらしのアリエッティ』の感想

先ず、映像を見つつ感じたことを箇条書きにて記す。
・家の幾何学的構造が気になる。
・お茶が粘液である。ここに限らず、液体描写が全て粘液的である。最後に流すアリエッティの涙は、さながら精液の如きものである。
・おばさん連中が悉くヒステリックである。アリエッティの母は「心配性」を通り越して「神経症」である。家政婦については言うまでもない。
アリエッティと少年(名前を忘れた、神木隆之介に因んで仮にKとする)とが2回目に出会う時の、神木の「怖がらないで」というセリフが怖すぎる。あの場面は意図的にホラー映画と同じように演出しているのだが、それにしても怖すぎる。
・Kの置いた角砂糖をアリエッティがもらう時、彼女はアリを払うのだが、①アリは結構獰猛な肉食昆虫なので、そういうことをすると噛まれる。アリエッティのサイズを考えると、アリはさながら死肉にたかるハイエナの如きものであるわけで、それをああまで簡単に払うのは、余程の度胸がない限り不可能である。②不衛生なアリの触った角砂糖を持って帰るというのは、蛆の集った肉を素手でつかんで持って帰るようなものである。私には到底そんなことはできない。
・カラスが窓を突き破るシーンは、さながらヒッチコックの『鳥』のよう。まあこっちは単独犯だが。
アリエッティ一家が引っ越すシーンで、アリエッティたちが草を掻き分けているのに、草が動いていない。タヌキが現れるシーンでは動いているから、手を抜いたのか?
・最後のシーンでアリエッティの流す涙の量が異常である(この涙も粘液であったのは先に述べた)。顔の4分の1程度の大きさの涙を流しているが、脱水症状が起こらないものか心配である。
・声優陣は棒読みのオンパレードであるが、志田未来だけは良い。ふつうあの年齢で声優初挑戦というのでは、セリフが噛み噛み、発声不明瞭になること請け合いなのであるが、志田は役者としての基礎が出来ているのか、その点の欠点は何ら見せず、実に流暢に、笑うが如く、雄弁に語っていた。そもそも志田の声質は戸松遥に似て、それ自体個性的ではないが非常にエロティックな雰囲気を湛えているのであって、そのエロティックさをアリエッティの初恋という性的なイメージに合うように醸し出していたのは評価に値するだろう。志田は俳優として売れなくなったら声優に転向するべきである(はっきり言って寿美菜子悠木碧よりも将来有望である。さすがに早見沙織と比較するのは微妙だろうが、それでも訓練次第では早見を食えるであろう)。なお他の声優(俳優)は死ぬべきである(如何にして死ぬかは各自に任せる)。特に神木は、ジブリアニメに何回も出ていながらあれしかできないのでは、志田に申し訳ないと思うべきであり、早速中央線に新宿駅にて飛び込むべきであろう。

さて、以上が直感であり、これからが本論である。『借りぐらしのアリエッティ』は実に多くの問題を含んでおり、その問題は視聴者個人の問題意識に合わせて変化するものであるから、ここではやはり、私という特定個人の問題意識に従った感想という形で、その問題を摘出せんと試みる。

(1)性行為と繁殖
アリエッティは露骨に扇情的であり、そしてKは露骨にアリエッティをセックスに誘おうとしている。Kが初めてアリエッティの姿を見る時に語りかける「姿を見せてよ」という言葉は、「君とセックスがしたいな」という言葉の同義語である(だからアリエッティが最後に流す涙は、さながら膣内射精後に膣外に流れる、充溢した精液の如きものに映るのである。もっとも実際には、射精は膣内の深いところでなされる為、精液を外に出そうと思わなければ精液はあふれ出ず、この点でアダルトゲームやらの描写は誇張であるのだが、それは今は措いておこう)。実際、アリエッティは初めて姿を見せる際までは、カーテンやティッシュ(男性の自慰の象徴、なお女性が自慰の時にティッシュを用いるのかどうかは私には不明であるから、女性の読者はそれを私に伝えることが要請される)に身を隠し、Kの欲情を滾らせる(さながら「生着替え」の如く)。トトロは神であったが、アリエッティはKにとって同格な対象であり、従ってKの生物学的本能の対象なのである。
アリエッティは、自らの姿を見られたことが明らかになった時点から、心ここにあらずという感じでぼーっとしている。これは自己存在を「人間」に認知されたことに対する後悔や焦りと、同時にKを見て自己に芽生えた恋心とに由来している。この二つはそれ自体は異なった感情であるが、しかし次の点で一致する、即ち「自己存在を相手に差し出すこと」という点において。アリエッティら小人族はその存在を「人間」に知られてはならないらしい(もっとも何故に小人族が自らを人間と異なったように自己定位することに頑なに拘るのかは謎である。この点については後に触れる)。従って自己の存在を知られるということは、自らの知られたくない本質(そういうものがあればの話だが)が光(Licht)の下に晒されるということを当事者にとっては意味する。一方で恋心とは相手とセックスしたいという感情のことであるが(「それは違う」という潔癖症の偽善者に対しては、かつて日記にて述べた、恋愛の本質が所有であることという議論によって応答と為す)、セックスという行為はそれ自体私的なものではあっても、自己の内なる本質が相手に対して開示されるという実感を伴う。相手に所有されることとは、単に所有権が相手に帰属しているということを意味するだけではなく、自己に商品価値が付与され、本質が脱化されることを意味するのであるから、セックスは本人の主観にとっては剥奪であり、光の下に照らされることである。こうして、小人族の存在が「人間」に知られることは、「人間」とのセックスに等しい。アリエッティはこのことに気づき、夢にまで見たファーストキスをした女性が、当該行為を神聖化して白昼にも夢想するが如く、「見られた」ことを自己の内で特別化させる。
キスの実感が忘れられないアリエッティは、次に当該快楽を極大化するために、Kとのセックスを夢想した。アリエッティが親の制止にも関わらず何度もKに逢いに行こうとするのは、彼とセックスがしたいからである。一度目は、彼女の目論見は失敗した。カラスという名の陰茎が、窓という名の膣に嵌ってしまった為である。このカラスの激しい描写は、ストーリー的には大した意味もないにも拘らず、家政婦の笑いのシーンと同程度に記憶に残るシーンであるが、これはアリエッティのセックスが順風満帆にはいかないことを暗示する。一方Kは、毎日アリエッティのことを想像して自慰に耽っていたのであるが、彼女の姿は未だ顕わならず、想像はあくまで想像にとどまっていた。両者が共に欲望を満たす為には、二人は互いに互いの本質を曝け出さねばならなかった。
こうして両者の出会いのシーンが導かれる。Lichtの下に互いは互いの姿を顕わにし、本質を開示しあう。Kが本格的に会話してからすぐに毒舌を吐く(「君たちは結局滅びるんだよねwww」)のは、両者が既に本質的には恋人であり、そしてセックスの空間では濃密的な相互所有が顕現していたからである。そしてここで語られる「種の繁栄」と「種の滅び」はそれ自体セクシャルなイメージを持つ言葉である。Kによれば、アリエッティはセックス・パートナーを見つけられないがために滅ぶしかない。家のみを基盤にもち、交流せずソサエティを形成しない小人族は、家という基盤を失いながらも繁栄してきた「人間」と対照を為す。誰彼構わずセックスする人間は、結果的に生の本質を拡充した。一方濃密な家を構成した小人族は、セックス自体は行うものの(だからアリエッティがいるのだろう)あまりにも控えめな暮らしをしてしまった。結果として彼らは、生の本質を見出すどころか、自らの滅びを惹起した。
このようになったのは、小人族が自らを小人として、「人間」と異なる者として規定したそのドグマに原因がある(その故に彼らは大々的繁殖が出来ないのだから)のであって、Kはこのドグマを取り払い、自らとセックスしろ、と強要していった(アリエッティとのコミュニケーション要求→アリエッティの姿の提示要求→アリエッティとの、光の下での対話という順番)。この意味で、「人間」と小人が変わらないという、しばしば繰り返されるKの想念は、「私はアリエッティとセックスがしたく、かつそれは可能である」(重要なのは後者)という欲望に基づく。もっともこれは生物学的真理に反してはいない。先述したが如く、小人の自己規定は事後的なものであり、その真理たるを「人間」に標榜し得ないからである。
だがアリエッティは、セックスにおいて陰茎を挿入するまさにそのすんでのところで、それを拒絶してしまう。本質的に同じ欲望を持っていたアリエッティとKとは、ここで反目する。アリエッティは小人族と「人間」との違いに固執する。それは彼女にとっては、言わば、人間が犬とセックスしたがらないことと同じである。もっとも人間の場合、犬に誓うことはあっても、犬に自らの存在を理解されたという実感を抱くことは多分ないから、生物学的な差異を飛び越えても犬と恋愛的なセックスをしたいというインセンティブはそれほど強まらない。しかしアリエッティにはそれが出来ない。そもそもKとセックスしたかったのは彼女ではないか(Kも彼女とセックスしたかったが)。本質は既に光の下にある。今更それを隠すことは出来ない。
ではどうしてアリエッティは逃げたのか?ここから逃げ出す方法は、自らの種族ドグマを普遍化しようとすること、そしてそこに逃避すること、これしかない。セックスを断る理由が最終的に「引越し」になるのはその故である。この引越しは、ドグマティックであり本来理由になっていないのだが、最終的にアリエッティはそのドグマへと回帰していく。引越しはアリエッティにとって天啓であり、それこそ反逆不能の運命である。

(注:ここで一つ解釈上の問題が発生する。元々アリエッティにとって種族間格差のドグマは強かったはずだが、何故彼女はあくまでKと関わろうとしたのか、ということである。本質開示=裸を見られたこと、という事実があったとしても、だからといってそれを保障するかのごとくKとセックスしたいと思うのは、いくらなんでも欲望の奴隷過ぎないか?しかしこれについては映像内に説明がなく、ストーリー的に「とりあえずセックスしたかった」としか解釈しようがないので、この問題には答えられない。最近のアニメはこの作品に限らず、「恋愛したい」という語が即ち「セックスしたい」ということを表すことが殆どであるから、監督の米林もその範疇内に納まってしまった、ということか?)

ここで重要となるのがキャラ「スピラー」である。このキャラ名は無論ラテン語の「螺旋」(英語で言うspiral)であるが、この螺旋循環のイメージはセックスのイメージと本質的に等しい。性行為により子を為すという行為は、それ自体が無限の連鎖を前提し、種という唯名論的集団の維持という目的のために、セックスを機械化していく(この点で、現代世界が風俗店のような形でセックスを娯楽として売り出す行為は、それ自体資本主義という無限の連鎖を前提する循環システムの産物でありながらも、なおセックスを単なる機械的行為に堕さしめることから逆説的に救う行為なのである)。スピラーの登場シーンは、実際に全て性行為に関わっている。最初の登場は、アリエッティに小人族の生き残りを伝え、アリエッティに同族繁殖の可能性を残す(この事実は先述したKとの本質開示即ち擬似性交において、重要なファクターとして働く)。引越しの場面では、小人族と「人間」との共存不可能性をあくまで示す存在として働く(新しい引越し先を示すのは彼である。また最終シーンで彼はKに弓を向ける)。そして最後の最後ではアリエッティにプレゼントをして仄かな恋心=性交要求を匂わせる。こうしてスピラーは繁殖の象徴として機能することになる。だが逆に言えば、種族ドグマを維持した上で、セックスを機械化するという方向にアリエッティを導くという意味で、スピラーはアリエッティからセックスの楽しさを奪い、所有としての恋愛をも奪いかねない者として働く。Kとの交わりは本質開示を伴ったが、スピラーの提唱するセックスにはそれがない。まさにそれは機械的であり、セックスはエデンの園におけるが如く、子を為すためだけのものになる。
かくして、小人族と「人間」との同一性を主張したKのセックス欲望は裏切られ、寧ろ逆説的に、小人族は「人間」から乖離し、動物に堕していく。自然化とは単に礼賛されるべきものではない(この点、ジブリの人間は理解が甘い気がする)。『ポニョ』において僅かに示された、人間と非人間の間の境界の危うさは無視され、境界は結果的に補強されてしまった。これは、アリエッティら小人族と同じ論理で生きるもう一つの主体である家政婦(キキキリン)を分析することでより鮮明に示されることになるが、些か日記が長くなったから、一旦ここで打ち止めとする。

(2)「借りぐらし」と「人間」の論理
「借り」とは、自己正当化的な用語を用いているが、要するに窃盗のことである。これを「借り」と強弁して「仕方ないでしょ」という雰囲気を出すところに小人族のエゴイスティックな雰囲気を感じるのであるが、これはどうやら「自然」という一つの共同体の下においては本来「所有」という概念がなく、従って当該強奪行為は自然のものを「借りる」(それによって生きる)という語によって表現されるのだ、ということらしい(『借りぐらしのアリエッティ』公式ページのインタビューより推察)。だがこの考え方は、そのような「自然」の上に、「人間」が多様な工夫を重ねて秩序を構成してきた、という事実を忘れている。「人間」は、本性的に平等でなく、明らかに不平等かつ余りにも個が弱いという特徴を補填する為に、「人間」の論理による秩序付けを考案した。だが「自然」の下に「人間」の秩序を包摂し、もって「人間」を「自然」に従属させるという行為は、それによって逆に「人間」により、かつて放棄されたはずの「自然」の論理が悪用される、という危険を惹起しかねない。偉大なる「自然」の秩序のもとでは「人間」はちっぽけなものだ、という言い方は、「人間」より「自然」におけるハイエラーキーが下位の動物(即ち小人族)によって主張される場合、それ自体自己の生存を危殆に瀕せしめる物言いである。小人族はそれ故に、「人間」の強さに対して過剰に臆病である。生物的優位者が自らを殺害することを恐れているのだ。
だからこそ、「借り」とはそれ自体、自己の存在を賭した営み=狩り、となるのである(この二つの語の結びつきは私が思いついたものではなく、ちゃんと公式サイトに書いてある)。前回の日記にて、『アリエッティ』に潜む性的なイメージと、作品内に通底する循環と性交のモチーフについて述べたが、「借り」もまた、その循環的イメージの中で語られる。何度も繰り返される生命維持のための「狩り」、無限の窃取行為としての「借り」、存在が知られた瞬間に行われる「引越し」―。「借り」=「狩り」とは、文字通りの意味での単なる貸借関係―そこでは契約が支配する―ではなく、生死を賭した闘争、bellum omnium contra omnesである。ホッブズの場合この闘争を契約という表象により秩序付けようとしたのだが(もっともこの操作には多大なる問題が付随することは、先賢の研究を引くまでもなく明らかであろう)、アリエッティ一家は逆に、契約を闘争により止揚する。それ故に借りるという行為は当事者への返還を伴わず、窃盗の観を呈することとなる。
だがそれは「借り」が契約でなく、本質的に窃盗であるということを意味しない。「借り」=「狩り」は「人間」に対する契約ではないだけであって、「自然」に対する契約ではあるのだ。先にも述べたように、「借り」の本旨が「自然内のもの」への「借り」ということにあるのならば、「人間」の論理はそこでは問題とならない。あくまで小人族は、「人間」と自らとを区別し、自らを「自然」の一因として定義づけることで、自己の窃盗を「借り」と認識することが可能となる。「人間」からの死の恐怖は、いわばこの自己定位の代償である。
アリエッティらがセックスに従順であるのも、ここに要因があるだろう。生命の循環連鎖を旨とする自然を奉ずることにより、彼らは対価として生=性を受け取る。「滅び行く小人族」のためには、暴力的な「自然」に身を委ね、「借りぐらし」をするしかない。「借り」とはこの意味で一種の売春である。従って、アリエッティの売春停止要求=Kとのセックスをしたいという欲望、もっとオープンなセックスをしたいという欲望は、この契約に違背する。アリエッティ一家がKとアリエッティを会わせたがらないのはこのためである。だが前の日記で述べたように、この契約依存的な、禁欲的なセックス観=生命維持としてのセックス観は、逆説的にも小人族の滅亡を現実的なものとしてしまった。まさしく小人族は自然という暴力団によって身ぐるみをはがされ、限界まで中身(この表現は、精液の中身たる精子をも暗示する)を搾り取られ、その本質を脱化し、動物化していったのである。一度は売春から脱出し、Kとのセックスを楽しもうとしたアリエッティも、何故か「自然」の論理に身をゆだね、セックスの奴隷となることを選択した。だがここに存在しているのは愛ではなく、機械的な正確さで反復される、陰茎の膣における反復的往復運動でしかない(この導き手が「スピラー」であることは、先に述べた)。
ここで、「人間」側の、極めて特徴的な人物が想起される。それは家政婦である。彼女はアリエッティの母を略取して捕縛し、瓶の中に拘束するのであるが、その行動の動機は明示的には最後まで明かされない。彼女の表情は見るものに強烈なインパクトを残す(カラスのシーンと同じくらいに)が、その表情は悪意があるというよりは、いわば自らの願いが叶って嬉しい、といった風である。
家政婦はアリエッティの母を傷付けたり、彼女を政府機関に引き渡して巨万の富を得たいとか、それを他者に誇示して自己の業績を自慢したいとか、そのような動機で動いているのではない(もしそうだとすれば、Kに真っ先に自慢するはずである)。寧ろ彼女は頑なに小人の存在を秘匿する(「えっ、Kの伯母に小人ハウスや小人の瓶を見せようとする場面があるじゃん。あれは何なの?」と感じた者は、自らの読解力の欠如を呪うがいい。それは自慢すること自体が目的なのではなく、喜びを他者と共有したいのである)。彼女はただ愛でたい(おめでたい)のだ。彼女にとってアリエッティの母(小人族)は新しいお人形であり、見ていて楽しいが飽きたらポイする対象である。従って彼女は、ある意味で自己の欲望に忠実な「人間」であり、「自然」の論理に従って欲望を最大化するために、実力によってより弱い動物=小人族を蹂躙したのである。と、一見このように読める。
まあこれは間違いではないだろうが、一面的な見方ではないかと思われる。彼女は単に「自然」の論理に従うのではない。だとすれば、アリエッティの母を単に愛でるだけではすまなかったろう。例えばひとしきり愛でた後はとりあえず四肢を切断し、痛がる様子を見て楽しむ、というくらいはして良さそうである(普通の「人間」ならそうするだろう。ましてやあの顔を持つ家政婦である)。だが家政婦は何もしない。ただ愛でるだけである。これは何故なのか?
恐らくこれは、単に家政婦が欲望の最大化に生きる「自然」的存在である以上に、種族特有の欲望の最大化に生きる「人間」であるが故であろう。彼女が小人族に言及する時に、「泥棒」という言い方をしたシーンがあるが、これは小人への評価が単に生物としての自己の欲望にのみ由来しているわけではなく、「人間」の論理から小人族を評価していることの証左である。だが彼女は罰のためにアリエッティの母を略取したのではない(だからこそ四肢切断もしない)。彼女は別の「人間」特有の論理=秩序付けの下に、「人間」特有の欲望に基づいて、「自然」的に行動したのである。ではそれは何なのか?
これは「人間」が「人間」たる要素、即ち知識欲ではないかと思われる。知識欲は単なる生物的欲望ではなく、体系化された欲望である。家政婦の「理性」はこう要請する―「この人(アリエッティの母)を知れ」と。少女が人形を愛好するのは、人形という人間の似姿を見ることで、人間存在の意義を少女が思考し、それを当該少女が快感に思うからなのであるが(その意味で全ての少女は哲学者である。なお余談だが、最近小学3年生の女児が自殺をしたというニュースがあった。これは当該少女がハイデガーニヒリズムの影響下から脱し得なかったことが主因だと思われるが、こういう事情にも少女の人形愛好趣味は関わっているかもしれない)、家政婦がアリエッティの母を見る眼もまたその様な眼である。彼女にとってアリエッティの母はネズミの如き異物ではなく、自己の似姿であり、自己の内省の契機であり、知の構築のための手がかりである。であるから、彼女の依拠する欲望は単なる「自然」の欲ではない。彼女はあまりにも人間的な(allzumenschlich)欲望の下に生き、それを「自然」の力の下に包摂して、アリエッティの母を略取したのである。つまり彼女の略取は、「自然」と「人間」とを混在させた行為なのである。
こういうわけで、家政婦は断じて「悪」ではない(というより「人間」的な基準で悪なのは寧ろ小人族の方だろう)。彼女は「人間」と「自然」を架け渡す、非常に重要な存在である。寧ろ彼女はアリエッティ的な「自然」に与する者に対し、両者の越境可能性を示す、もうひとりの存在である(一人目はK)。家政婦はアリエッティに誘惑する。「あなたもセックスがしたいのなら、母親を殺して分析しなさい」と。彼女の誘惑は、アリエッティが頑なに信じていた種族ドグマと循環の思想を、母殺しというタブーを犯させることによって破壊せんとする。しかしながら、アリエッティは最早動じなかった。彼女は自らが「動物」でありセックスの奴隷であると信じてしまった。だからこそ彼女は母親を、「生物的愛着」に則って救わざるを得なかったのである(この信仰強化が如何にして行われたかが謎である、ということは、前の日記にて述べた)。そして、母を見殺しにすれば止められたはずの「引越し」という機械的セックスを止められなかったのである。
こうして、家政婦はアリエッティを「人間化」することに失敗した。ポニョが「人間」になりたかったように彼女はアリエッティを「人間」にしたかったのだが、アリエッティはセックスパートナーであるKと共にその願いを粉砕した。成程いかに「人間」であろうとも、家政婦の知の構築の手法は些か「自然的」で「動物的」であったかもしれない(この点では家政婦は非難されても仕方あるまい)。しかし、虎が待ちに迷い込んで際に彼を射殺することは「人間的」なのか、「動物的」なのか?しかも虎は最初から「人間」になろうとしていないのに対し、アリエッティは「人間とセックスしたい」といって、「自分から」Kを誘惑してきたのである。喩えるなら、虎になったリチョウに、エンサンが返歌した瞬間、リチョウがエンサンを襲って食べる、というようなものである。悪いのはエンサンなのだろうか?
こういう事情を考えずに、家政婦を悪役だとか怖いだとかいうように評価するレビューがネット上に散見される。というより家政婦を擁護する論陣はまれである。こういう状況を見ると、「人間」を「人間」に対して反感を抱かせ、争わせることは、案外簡単なことなのではないかと思わざるを得ないのである。世界平和のためには、家政婦がアリエッティに示したような無償の知識欲と愛とをもって、家政婦を愛でることが必要であろう。

(3)種の格差という幻想
今までの感想において、『アリエッティ』内において存在する二極対立構造―「自然=循環=機械と人間=欲望=知」―を、性行為と「借り」そして家政婦の問題を検討することにより摘出してきた。そしてこの二極対立構造を支えていたのが、「小人族と人間との間の種の格差」というイメージ(ドグマ)であることも示唆してきた(私の文章は些か晦渋にして、また敢えて非論理的な文章を並列することで論旨が不明瞭になることも多く、このような二極対立構造が明示的な形で示されてはいないように読めるかもしれないが、そこはご了承いただきたい)。というわけで最後に、このドグマがどれほどの妥当性を持つのか、ということを検討せねばなるまい。これを検討することで、ジブリが無邪気に前提とした自然=人間対立が、必ずしも当然の対立ではないことが、間接的にでも示されることになるだろうからである。
ところで、「小人族」と「人間」との間の差異は何であるか?元より「人間」とその他の「動物」との間の差異は自明ではない。古来より「人間」はヌース(nous)を持っていたり、絶対的な自己意識を持っていたり、シンボルを操ったり、欲望を持っていたり、他者との実存的交わりの中でアイデンティティ獲得したりする者とされたのであるが、そのいずれも「人間」を定義しようということを目的としているというよりは、その人の哲学体系の中での問題意識を端的に示すものとして「人間」を定位した、という面が強く、絶対的なる定義が普遍的妥当性を持たない現代において、真理として主張しうるような「人間」定義とは到底呼べまい。ある存在(そもそも存在とは何であるかが問題だが、ここではそれは扱えない)が「人間」であるということは、当然哲学において重要な問題であったしこれからもあり続けるだろうが、いかなる思索が導かれようとも、その定位付けが「人間ならざる者」との関係で人間と非人間との間の境界を絶対的に引くものとはならないのである。
しかし何故かアリエッティら小人族はこの境界付けを無邪気かつ無前提に行う。循環と機械の論理に従う小人族は、存在開示という「人間」的営みを「人間」にしてはならなかったのであるし、「人間」とのセックスは、初めアリエッティによって「欲望」されるものの、やがて種の格差がセックスを防止するに至った。このような認識は、小人族にとって当然視されていた。この両者の区別は、先に述べたどの「人間」の定義においても簡単にはなし得ないはずであるが、天才的哲学者の集合体である小人族は種のドグマを頑なに信仰している。もしこのような信仰が、小人族の持つ圧倒的な文明レヴェル(小人族の技術レヴェルは人間界並である)にも拘らず平然と行われているとすれば、小人族の技術的集積の肥沃さに対する知的集積の乏しさを笑わざるを得ないのであるが、それにも拘らず彼らにとっては種間格差は物神化され、「真理」として彼らの間に通用している。
実際小人族と「人間」との間の差異は(少なくとも私には)不明である。彼らがそう主張しているという以外に、有意な両者の差異は見当たらない。実は差異付けは客観的に存在「している」(seiend)のではなく、それ自体が主体による能動的な構成によってのみ存在「する」(sein)こととなる。あるいは名前は与えられる(donne)のであって、名前がある(etant)のではない、と言っても良い。例えば我々が犬を「犬」と呼ぶのは、そう呼ぶからであって犬が「犬」であるからではない。区分は神によって絶対的に与えられているのではない(少なくとも現代においては、無邪気にそのような主張をすることは普遍的には不可能である)。
そうは言っても何らの差異も存在していないというわけではない。唯一の差異は、小人族は「社会」を形成しない、ということである。もっともこれはスピラーが劇中に登場する際に「仲間がいくらかいる」という発言をしていることから、各家族が完全な隔絶状態にあるというわけでもないようなのであるが、しかし当のスピラー自身が放浪生活をしているような素振りであることを見るに、彼の言う「仲間」が集団生活をしているという保障はない。というより寧ろ、アリエッティの父の「この家にはかつて3組の家族が住んでいた」という発言は、家族間に交流はあっても、そこに何らの「社会」が構成されていなかった、ということを傍証する。小人族は互いに「知り合い」であったとしても、本質的に孤独であり、家族の枠を超え出ようとしない。彼らにとって家族共同体が最高の共同体である。そして「自然」の中にあっては、家族は各々勝手に「自然」と契約し、自らを「人間」と異なる「自然」的主体として定位することで、結果として緩やかな同族意識が形成されているに過ぎない。彼らの同族性の主張は、従って、「社会」を作らないという人間との事実的差異に由来し、そこから発生する自然への自己譲渡・売春関係を主体的に引き受けたもの同士の持つ、言わば親近感情のようなものである。
だが何故彼らは事実として「社会」を構成しないのか?普通に考えるならば、家族が各々「借り」をするよりも、幾らかの家族が集住し、売買関係を構築し、知と商品のネットワークを形成すれば、より一層「循環」的な生の保証が得られることになる。というよりそもそも「人間」からわざわざ「借り」る必要もないのであって、例えば動物界に存在する死肉を漁り(あるいは「狩り」)、それを交換するということだって出来るはずである。何故小人族はそうしないのか?この点については、「設定」がどうなっているのかが不明なので何とも言えないところではあるが、この理由もやはり「循環」的な自己定位に由来しているところが大きいのではないかと思われる。確かに、小人族は「事実として」、原始には社会を構成しなかったのかもしれない。しかしながら、その社会構成の欠如という事実が、先述したような「種の格差」という幻想を、そして「小人族」の同族性という主張を形成した後は、その幻想が自己成就的に事実を規定する。つまり、「我々は「自然」的であるから、「人間」的になってはならない」という強力な妄想が小人族を支配する。この妄想は当然社会の形成を阻害する、何となれば、「人間」的になることは、小人族の家族が各々「自然」と契約した(売春した)という原初的事実(あるいはこの事実すらも幻想なのかもしれないが)に反するからである。かくして妄想は妄想を生み、事実を歪曲して固定化する。小人族の認識回路は、このようにして保守的である。種間格差が、原初的には何ら実体として存在せず、段々と「真理」として構築されてきた、ということに、小人の思いは至らない。彼らは人為的な真理を、「自然的」な事実と取り違えてしまったのだ。
かくして自然に自身を売り渡し「売春した」小人族は、根本のところで自己の定位付けを誤った、というよりそのドグマ性に気づかなかった。要するに彼らには自然に「借り」など存在していなかったし、わざわざ自然から「借り」る必要もなかったのだ。「大自然への回帰」と言えば聞こえはいいが、行っていることは「回帰」ではなく「自己譲渡」であった。引越しをすることで彼らはついに(家政婦の示したような)知性を捨て去り、「人間はポリス的動物である」と頑迷に主張するアリストテレス共同体主義への別離を主張し、端的に機械的なセックスを繰り返す、性の奴隷となった。アリエッティが最後にKの前で流した涙は、かつて述べたように膣内射精時に外部へとあふれ出す精液なのであるが、それ以上に別れの悲しみ―自らが「人間」であることを止めるときの悲しみ―を表現している。

以上が、「自然」に戻ることで「人間」をやめ、知性なき性奴隷へと堕落(といえるかどうかは人次第だが)していくアリエッティと、あくまで「人間」であることを通じて娯楽的セックスを楽しもうとする「知的」な家政婦(とK)との対立構造の素描である。『ポニョ』においてはこの境界は非自然的なものの中で融解されたのであるが、『借りぐらしのアリエッティ』においてはこの境界は固定化される。互いに異なる契約基盤に立つ小人族=自然と「人間」との境界は、小人族による一方的な自己認識の固着によって固定化していく(「人間」がこの二つの境界を相対化しうることは、私がこういう感想を書いていることからわかるように当然に可能であり、そして家政婦が実際それをしようとした、ということも述べた。もっとも家政婦は小人族を「人間」化しようとしたのであって、真に境界を止揚したわけではないが)。かくて「小人」はますます動物化し、「人間」はますます「人間」化していったのであった。
それ故に我々がなすべきことは、この境界を真の意味で「相対化」することであろう。この相対化の作業は、「人間の自然に対するエゴを暴く」というような陳腐な形ではなし得ない。逆に動物を人間の世界に引きずり込む、という家政婦的な手法によってもなし得ない(もっとも個人的には、自ら欲望にまみれたセックスを望む小人族に対して、そのような「人間化」の手法をとることが必ずしも悪であるとは思わない、ということは前に述べた)。相対化とは境界の存在を事前に無意識的に前提することではない。既に境界自体が「作られた」ものであることを認識するということでもある。だから先ず我々がやるべきことは、次の問いを自己に向けて発することであろう―「我々は人間なのか?」「私は人間なのか?」と。これをせず、ただ単に「アリエッティがかわいい」とか、「家政婦は悪い奴だ」とか、乃至は「人間と自然との関わりについて考えさせられた」と臆面もなく主張し、自らが人間であることを特権的見地から疑わない者たちは、語の正確な意味で「禽獣」である。『借りぐらしのアリエッティ』は、そのような禽獣達に対して、「君たちは禽獣なのだよ」と教えてくれる極めて良心的な作品であるが、禽獣はここまで親切に言われても、自らが禽獣であることに無自覚なのであり、また自らが禽獣であることに誇りすら持つのである。