『侵略!イカ娘』と、「暴力装置」発言

外界は概念により解釈されるが、しかし我々は概念の用法に関して、あるいはその沿革に関して、想像以上に無自覚である。「自衛隊暴力装置である」という極々当然の主張に対してかくもヒステリックに世人が反応するのも、彼らが「暴力(violence, Gewalt)」の概念に無自覚だからなのであるが、そういった時事的話題を議論することがここでの話題ではない。重要なことは、かかる概念への自覚の無さと沿革の無知から、概念は時として激しく、最早それこそ「暴力的」と言えるまでの変更を被ることもある、ということである。そして概念のかかる変更は、そのまま外界の変更へと帰結する。
確かに、外界が先ず存在し、その外界の事物に対して記号としての概念を「充てる」ことにより外界は解釈対象となる、という素朴な認識論は、最早現代では通用力を失っている。しかしながら、ここで問題となっているのは、このような認識の始原に関する問題ではなく、認識それ自体によって世界が、認識論レヴェルでも実践的レヴェルでも変更される、ということである。意志が認識からの導出によって指針を得るのであるとすれば、意志から派生する行為もまた認識の所産である。そしてかかる行為は、それ自体認識により規定されているが故に、我々の認識枠組みの変更=ここでいう概念の変更は、それ自体我々の行為の変質を帰結する。
例えば、犯罪を世界から根絶するための最も確実な方策は、世界から法律を消滅させることである。法律が無ければ犯罪と言う概念が作れないため、犯罪は起こりようもない。そうは言っても自然法やら自力救済やら面倒な問題は大量に存在することになるが、いずれにせよそれらは「犯罪」の問題ではなくなるのである。
あるいは、次のようなケースをあげても良い。鬱病を根絶させる最高の方策は、鬱病者に自殺させることである、と。というのも「鬱病」という概念は鬱病の主体が存在しなければ存在しないのであり、従って鬱病者は放っておいてどんどん自殺させたほうが、鬱病を根絶するためには有益である、という結論が導かれるのである。
以上の2ケースにおいて、何かおかしい、と我々は直感する。だが何故か?両ケース共に、100%の確率で、犯罪と鬱病とを根絶できているではないか?ここに、概念の変容という問題が関わっているのである。残念ながら、私は刑法などは良く知らないため、犯罪(Verbrechen)という概念が、社会契約の違反(brechen)として歴史上最初に定位されたのかどうか、また鬱病という概念がいつどこから発生してきたのか、ということは知らない。しかしながら、これらの概念は、定位それ自体を目的として定位されたわけではなく、より高次の目的、そして高次の理論に基づいて策定され、使用されるに至ったこと、これ自体は疑いない。この場合、概念は、定位されたその時点においては、意志を規定したわけではなく、逆に意志によって規定された産物であった(無論この概念を定めた意志それ自体は、世界の批判的認識によって導かれたものであろうが)。勿論この概念は、やがて意志をオートマティックに規定するに至り、従ってあたかも行為が概念からの演繹(というより反射反応)として導かれたかのような概観を呈することとなるが、それは意志が概念に支配されていることを意味しない。寧ろ意志は、道具的な概念を通じて、かの高次な目的、過去の偉大なる所業に通じ、そこから行動指針を導き、行動を惹起せしめたのである。真の問題は、この過去が我々から失われ、偉大なる所業が忘却されたときに、概念はそれ自体物神化し、我々の行為が、文字通り概念の奴隷になった際に発するのである(その典型例が、「暴力装置」をめぐる諸問題である)。

以上のような問題を先鋭に示すアニメが『侵略!イカ娘』である。物語の最初で、イカ娘は海からやってきた侵略者であると自称し、海の家の人間に対して侵略行為を宣言するものの、その宣言は海の家の従業員(アニメでは藤村歩)によって制止される。しかしながらかかる制止は、初め(机から下ろすこと)こそ強き者の武力による弱気物への抑止として解することも可能であろう(そうは言っても、藤村歩の態度は、初めからイカ娘を人間としてみなしている節がある。尤もこれは、後に見るように「主体として」イカ娘をみていた、というより、単に外的表徴=コスプレからそう判断していたに過ぎないが)が、自己紹介の後は最早危険人物への武力による抑止という形態をとらず、イカ娘を一旦「こちら側」に引き入れた上で、その主張の内在的な不備を批判する、という形態において行われる。このことの効果は、イカ娘と藤村歩との関係が、異生物間における実力闘争という形ではなく、イカ娘を人間世界の一員として招き入れることに伴う世界内における二主体間の合理的な批判という形で定位されることにより、彼女の主張を人間世界の論理によって裁断することを正当化すること、これである。簡単に言えば、イカ娘への藤村の態度は、動物に対するそれではなく、人間に対するそれであり、故にここに、イカ娘が政治的主体として成立することになる。
しかし無論これは本来イカ娘が考えていたことではないだろう。イカ娘は「愚かなる人間共」を侵略するために、「勝利して支配する」ことだけを考えていたのであろう。だがこの目論見は、藤村歩による戦略のために脆くも崩れ去り、イカ娘は政治の領域に組み込まれてしまったのであった。勿論イカ娘は、藤村を威圧し、恐怖による支配を貫徹することも可能であったが、現実が彼女にそれを許さなかった。「蚊一匹撃ち落せないこと」、「壁を破壊した弁償のために海の家で働くようになったこと」、「田中理恵に戦闘で敗北したこと」、これらが、イカ娘に「人間化」を迫る圧力として機能した。結果イカ娘は、暴力による支配から、言語による討論の場へと入らざるを得なかったのである。
だが、何故藤村歩は勇敢にも、イカ娘を政治の場へと引き入れることに成功したのか?一つには「イカ娘が可愛かったから」という理由があろうが、それだけが理由ではない。イカ娘は初めこのように宣言した。「私はイカ娘である」と。イカ娘とは、「イカ」と「娘」という2つの種類概念接合によって形成された、それ自体としては意味不明な種類概念である。だが、このような所作は人間たちに対し、イカ娘が政治的主体であることを逆説的にも示す結果となった。というのも種類概念の接合という営みは、人間理性の象徴、というより政治を可能にする条件の一つであるからである。即ち「私はイカ娘である」という宣言は、それ自体がイカ娘が人間であること、理性を持っていること、言論を旨とする政治の場へと参加したいこと、の表明と、人間たちの目には映ってしまう。極め付けに、イカ娘の行使しうる暴力がそれ程のものではない(蚊の例)ことが示されてしまうと、いよいよイカ娘は人間である。かくて、藤村歩は、イカ娘を政治的主体として扱い、そしてイカ娘自体も自らの武力の不全を認識し、自らを人間として定位するに至った。最早「イカ娘」は、意味不明な種類概念から、人格の表徴たる(それ故人間的営為の前提を構成する)固有名詞へと転化したのである。
なお、イカ娘が政治的主体であることは、その後もあらゆる場において表明されていくこととなる。CMでの『侵略!イカ娘』DVDの煽り文句は「イカの権利を無視してなイカ?」であり、これが動物としてのイカではなく、人間としてのイカ娘の権利を尊重せよ、という言明であることは言うまでもない(まあ動物の権利という議論もあるにはあるが)。また、イカ娘は片岡あづさに恐怖を与えんとするが、そこでは人格支配が目指されているのではなくて、市民社会における支配従属関係を定位し、自らの政治的空間からの待避所の形成が目指されているのである(故に、片岡がイカ娘を怖がらなくなる話で、イカ娘は落胆するのである。「私はこの世に忘れられ」と呟きながら)。これは、種類概念を固有名詞へと転化してしまうことにより、自己のアイデンティティを私的空間において失ってしまった、イカ娘の格闘なのである。

さて、上記において容易に看取せられるように、概念としての「イカ」と「娘」は、元来持っていた種類のニュアンスを喪失し、固有名詞へと変化するに至った。既に述べたように、この原因は、イカ娘の不用意な概念接合に加えて、概念接合を人間の表徴とみなす、人間側(藤村歩ら)の認識にある。しかしながら、イカ娘が元来海の中にいた(のか?設定をよく知らんのです)時の、彼女の「イカ娘」としての自己定位は、かかる人間からは、そして政治からは自由であった。「イカ娘」という概念は、彼女にとっては概念接合物ではなかった。それは彼女にとって「固有名詞」−但し人間が政治体において各存在者に対して要求するのとは別の意味での「固有名詞」だが−でしかなかった。それは単なる参加資格の表象ではなく、その語自体が「イカ娘」という、充実した意味を帯びていたのである(どういう意味か、と問われても、「近代的人間」である私には表現できない。そういうような意味である)。だがイカ娘は、海という充実した意味の共同体から一度挙がれば、否「一皮剥かれれば」、その意味表徴を人間の能力により分解され、かつての充実した意味は失われてしまった。イカ娘は「イカ娘」であったのに、最早それは「イカ」「娘」になってしまったのだ。後は、人間がそこに理性的接合能力を見出すのはそう遠い話ではない。自然の意味は、人間の意味に、かくして容易に置き換わりうるのである。
かくて、人間の概念接合能力は、かの「海」に対して、人間の認識対象としての意味のみを付与するに至った。いわば、人間は海を侵略しているのだ(なお自明のことだが、ここでいう人間の「海の侵略」とは比喩であり、イカ娘が自らの侵略の原因として掲げた海洋汚染とか生態系破壊とかのことを指しているのではない)。イカ娘の侵略願望は、人間のかかる海の侵略への復讐に端を発しているのかもしれないが、これについては作中に触れられていないので、真相は謎である。重要なことは、人間の自然に対する態度は、かかる概念の無自覚的な意味変容に由来している、ということである。『侵略!イカ娘』においては、かかる意味変容が惹起した事態はそう悪いものではない(イカ娘の政治化)が、これは場所と方法とを間違えると、極めて激しい自然と人間への冒涜を伴うこととなる(ホロコースト)。そういう意味で、機械的概念接合と「論理的な主張」それだけでは、人間は自らを真に思考せる政治的主体として立てることは出来ないのである。
ではどうすれば良いのか。ホロコーストイカ娘の人間化とを分けた分水嶺はどこにあるのか。それが分かれば苦労しない、というものである(上述したようにこれは思考という営みそれ自体に付随する問題であり、従って哲学的探求を要する)。だが一つの方策として概念の伝統を忘却しない、ということがあるであろう。概念が物神化するのは、それが伝統から切り離され一人歩きし始めたときである。、「暴力」(あるいはGewalt)という語はそもそもどのように用いられ、かつどのような歴史を持つのか、こういったことに対して自覚的であること、これこそが「啓蒙」(Aufklärung)の暴虐を防ぐための手がかりとなるであろう。とはいえそうは言っても、ではイカ娘の政治化にこのような事態が付随しているかといえば甚だ怪しい。そういう意味で、イカ娘の政治化は、やはり偶然の事態として見るのが適切であろう。要するに、機械的概念接合は、政治的主体の定立の「必要条件」ではあっても、「十分条件」ではないのである(勿論「伝統」もまた、必要条件でしかないであろうが)。
因みにこれについては、『侵略!イカ娘』最新第7話も若干の示唆を与えてくれるので、少しそのことにも触れておこう。イカ娘は、イカ娘を宇宙人であると確信している生天目仁美によって、研究所に連れて行かれる。そこでイカ娘は、宇宙人に出会うことを至上の目的とするマッドサイエンティスト3人に、次のように言われる。「私は宇宙人、と10回言え」と。それを遂行したイカ娘に3人は問う、「あなたは?」と。イカ娘は「宇宙人でゲソ!」と答え、3人はそれを録音し、念願がかなった、と喜ぶのである。ここで問題となっているのは、宇宙人という概念それ自体の意味が既に失われて固有名詞化し、そのメルクマールが単に存在者の(理性を要さない)表明にのみ着せられてしまう、という概念の物神化の状況である。イカ娘は、自らがまだ人間ではなかったことを思いながら、これに反旗を翻し、彼らの思考が形式化したことを批判するのである。イカ娘が同じ事をサイエンティスト3人に対して仕返すのも正にこの文脈においてであり、彼女は概念の形式化を、相手の論理を用いて批判しようとしたのである。無論その試みは、エゴイスティックな彼らの自己弁護によって失敗し、再びイカ娘は、概念が意志を機械的に決定し、最早思考作用が概念を批判することもないこの世界に「忘れられ」(vergessenというよりverlassen)てしまうのではあるが。
かような問題を平然と、平穏な日常の中で提起してしまうこの『侵略!イカ娘』の偉大さ(nobleness)によって、私は今クール最高アニメの栄光を、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』でも、『とある魔術の禁書目録』でも、『それでも町は廻っている』でも、『荒川アンダーザブリッジ』でも、『ハートキャッチプリキュア!』でも、『Panty & Stocking with Garterbelt』でも、『おとめ妖怪ざくろ』でもなく、『侵略!イカ娘』に付与するのである。そして、かようにも啓蒙的なアニメを放映しているというのに、仙谷氏の「暴力装置」発言をかくも論って批判する大衆は、アニメの読みこみ(「見」こみ、か?)が足りないというべきであろう。